vol.13『純粋な孤独』はこ
ちら
2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『ロジカル男飯』(光文社新書) 『料理1日目 たったの10皿で「料理の基本」はマスターできる』(光文社)
この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
父が遺したものは、あまりに平凡だった。古いレコードやクラシックカメラのような換金できそうなものはあったが、あとは管理費の明細、読みかけの歴史小説、数枚の領収書といったものばかりだった。
父はいわゆる団塊の世代で、サラリーマンとしてメーカーに勤務し、プライベートではクラシック(特にバロック音楽)を愛する人だった。僕の記憶にある父は晩年の姿で、自室でお気に入りの椅子に腰を下ろし、わざわざレコードで音楽を聴いていた。
なにか他に楽しいことはないのだろうか、と疑問に思ったこともある。やがて、父は眠るように亡くなったが、満足いく人生だったのだろうか。
「なにかいいものはあった?」
部屋の扉を開けた母に尋ねられた僕は首を横に振った。父がもっとなにか、奇妙なものを隠し持っている人間だったら良かったのだけど。
「特にもらえそうなものはないかな」
「そう、残念ね。夕飯は食べていく?」
「いや、今日は家に帰るよ」
僕は立ち上がり、なにか飲もうと台所に向かった。
「そうだ」冷蔵庫の扉を開けようとしたところで母が野菜室のドアをスライドした。「そういえばお父さんのワインがあった」
母は野菜室の奥にあったワインボトルをとりだし、僕に差し出した。そのボトルには奇妙なことに、ラベルが貼られておらず直接白いペンで『1720』と書いてある。つるりとしたガラス越しに見える液体は、夕暮れのような深い琥珀色だ。
「ちょっと前からあったから飲めるかわからないけど。お父さんも早く飲めばよかったのにねぇ」
保存状態も悪くなさそうだし、ワインなら飲めるだろう、と僕はそれを自宅へ持ち帰った。
「実家に古い白ワインがあったからもらってきた」
僕がテーブルにワインのボトルを置くと「これ、白ワインじゃなくてオレンジワインじゃない?」と彼女は言った。
「オレンジ?ワインなんだからブドウじゃないの?」
「違う違う。白ブドウが原料で果皮と種を一緒に発酵させたのをオレンジワインって言うのよ。地下鉄でもらったフリーペーパーで読んだ」
「そういえば流行っているって聞いたことある気もする」
「昔のワインの作り方だったはず。後で開けて飲んでみようか」
僕は頷き、台所で夕飯の支度をした。といっても冷蔵庫から鮭を取り出して焼き、サラダを添えただけだ。なんとなく魚料理が合いそうなので、悪くない気がした。ワインのキャップを開け、グラスに注ぐ。琥珀色の液体は光に当てると、宝石のように輝いた。
「乾杯」
グラスの液体を口に運ぶ。ワインを飲み慣れてはいないが、さわやかな酸味があり、素直においしいと感じた。かすかに塩味に似た舌に残る味わいがあって、それが一緒に食べる魚を一層、際立たせる。
「おいしいワインじゃない」と彼女は声を弾ませた。「お義父さんって、ワイン好きだったの?」
「いや、全然、そんな話は聞いていない」
グラスを置いたときだった。カチリ、と硬質な音が聞こえた気がして、僕は首を傾げた。それは、台所の換気扇の音でも、外を走る車のノイズでもなかった。聞こえてきたのはたしかに父が聴いていた古い時代の音楽だった。
僕らは顔を見合わせた。
「聞こえる?」
彼女は驚いた様子で小さく頷く。はじめは外から聴こえてきているのか、と思い、ベランダに出てみた。夜の住宅街は静寂に包まれている。リビングに戻るとまた音が聴こえた。きらびやかで、連続性のあるチェンバロの音。ボトルに耳を近づけると、たしかにそこから音が鳴っていた。やがて、音楽は終わり、部屋には静寂が満ちた。
ボトルに書かれた数字は西暦なのかもしれない、と僕は思った。1720年はバロック音楽の円熟期だからだ。 僕らは狐につままれたような気分で食事を終え、お気に入りの映画の続編を観てから寝た。夢のなかで「人生は一度きりだ」と父は言った。「だからこそ自分のボトルは自分で満たしなさい」
父はワインの中に、時間を保存する方法を見つけたのかもしれない。淡々と過ぎる日常の裏側で、父はひそかに豊かな旋律を残していたのだ。父の人生はつまらないものではなかった。だって、あれだけ心地良い音楽を、僕にお裾分けしてくれたのだから。
鮭のタリアータ
【材料】 (2人分)
鮭切り身 2枚
塩 ひとつまみ
ルッコラ 50g
オリーブオイル 大さじ1
レモン汁 大さじ1/2
しょう油 小さじ1/2
【作り方】
1.ルッコラは4cm幅に切る。鮭の切り身に薄く塩を振り、中火にかけ適量のサラダ油(分量外)をひいた中火のフライパンで皮目から焼く。
2 .パチパチと音がしてきたら弱火に落とし、皮目に焦げ目がつくまで3分焼く。裏返し、火を止めて余熱で2〜3分火を通し、皿に盛る。
3.2のフライパンにオリーブオイルを足し、レモン汁、しょう油を加え混ぜ合わせ、ドレッシングをつくる。ルッコラを和え、2の鮭に添える。
文・写真=樋口 直哉
今回ストーリーに登場したワインは…
グリューナー・ヴェルトリーナー オレンジ・コンタクト
橙
ライト&ピュア
繊細なワインで評価を得る、オーストリアの銘醸地を代表するワイナリー。塩味がアクセントとなる、滋味深いオレンジワイン。 詳細を見る
4.2
(17件)2024年
3,080 円
(税込)
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