vol.12『未熟な俺』はこち
ら
2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『スープの国のお姫様』(小学館) 『ロジカル男飯』(光文社新書)
この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
Sは自他ともに認める「合理主義者」だった。
彼が住むマンションの部屋は、すべての家具や家電が機能的に配置されていた。毎日、決まった時間に自動掃除機が完璧に掃除をするので、床にはチリ一つ落ちていない。もちろん、独身生活を続けているのは結婚という制度が不合理だと信じているからだ。
毎朝、決まった時間に起床し、整えられたルーチンで身支度を済ませる。決まった電車で出勤し、基本的には定時まで仕事をこなす。残業するときもあるけれど、生活リズムは極力崩さないことを心がける。彼にとって、唯一の楽しみは週末に楽しむ一杯のワインだった。誰にも邪魔されず、百貨店の地下や惣菜店で買ってきた料理とワインを楽しむ。ワインは星の数ほど種類があるので、決して飲み飽きることがない。彼にとってはそれが好ましかった。
ある土曜日の夕暮れ、Sは馴染みのない裏路地で一軒の不思議な店をみつけた。
「当店はあなたにぴったりのワインをおすすめします」
ぴったりのワイン?怪しい雰囲気にむしろ好奇心をかきたてられた彼は店内に足を踏み入れた。がらんとしたコンクリート打ちっぱなしの内装に古びた大きな木のテーブルが置かれ、一本だけワインがディスプレイされている。そのラベルには『SOAVE』とあり、その横にメモが残されていて、手書きでこう書き添えられていた。
「席を少し外しております。あなたにぴったりのワインです。代金は入口横にある料金箱に入れてください。 注意 このワインは正しい孤独と味わうことをおすすめします。」
酒類の対面販売を義務づける法律はどうしたのか、と彼は眉をひそめたが、それよりも孤独という単語が気になった。独り身である彼にとって、孤独とは忌避すべき対象ではなく、もはや嗜好品のように楽しむものだったからだ。
Sはやや戸惑いながらも代金を支払い、ワインを購入した。帰りの電車のなかで、SOAVEという単語の意味を調べると『心地良い、気持ちが良い』とあった。なるほど、と彼は思った。
駅ビルの地下にある高級スーパーでワインと合わせる惣菜を買った。もちろん、孤独は売っていないので、ホタテとキウイフルーツのマリネを選んだ。
いつものようにマンションに続く最後の角を曲がったところで、ポケットからキーケースを取り出す。キーケースのボタンを開きつつ、自動ドアをくぐる。集合玄関のオートロックを鍵で解除し、エレベーターに乗り込む。401号室が彼の部屋だった。
部屋に上がり、コートを脱ぎ、洗面台で手を入念に洗う。そのまま台所に向かい、食事の準備をした。照明を少し落とし、Sはグラスに黄金色の液体を注いだ。 まずは香りを楽しむ。白い花を連想させる香りが鼻腔をくすぐった。一口含んでみると、ワインは驚くほど滑らかに、何の抵抗もなく喉を通り過ぎていった。
(たしかに心地良い)
自分にぴったりのワインかもしれない、と彼は思った。その味わいは液体の形をした静寂だった。
二口目を飲んだ瞬間、不思議なことが起こりはじめた。気がつくと、部屋の隅にあった大型のテレビが消えていたのだ。
「・・・・・・?」
Sは瞬きをした。奇妙な高揚感があった。 テレビが消えたことで、壁の余白が美しく際立って見えたからだ。
再びグラスを傾ける。三口、四口、今度は処分しようか悩んでいた革張りのソファが消え、次は本棚が消えた。普通ならパニックに陥るべき事態だったが、彼は驚くほど冷静だった。ワインのボトルは半分になり、三分の一になった頃には、彼の意識は物理的な制約を離れ、部屋に漂っていた。このまま飲み続ければ自分自身も消えてしまう気がした。
世界から物が消えていくたびに、彼は心地良さを感じた。しかし、完璧に整った、何ひとつ無駄のない美しさはあまりに冷たい気がした。その寂しさを紛らわすように彼はホタテを口に運んだ。滑らかな甘さが口に広がり、酸味がそれを断ち切る。口になにもなくなったところにまたワインを口に運んだ。完璧な組み合わせだったが、なにかが足りない気がした。
「……そうか、僕は独りになりたかったんじゃない」
彼がそう独り言を呟くと、いつのまにか消えたはずの家具はすべて元の場所に戻っていて、窓の外からは遠くの街の喧騒や風に揺れる木の葉の音が聞こえた。現実であることを教えてくれるように。
次の瞬間、テーブルの上にあるワインボトルの横に落ちていた手書きのメモが目に入った。よく見ると短い文章が書き足されていたからだ。
「心地良さは、分かち合う準備ができた時に」
Sは立ち上がり、キッチンの奥に眠っていた二脚目のグラスに手を伸ばした。いつか、誰かと飲むために昔買ったグラスだ。無性に誰かを家に招きたい気分だった。合理的ではないかもしれないけれど。
ホタテとキウイフルーツのマリネ
【材料】 (1人分)
ホタテ貝柱刺身用 90〜100g
EVオリーブオイル 大さじ1
キウイフルーツ 1/2個
うす口醤油 小さじ1
米酢 小さじ1
【作り方】
1.キウイフルーツは皮を剥き、5〜6mm角に切り、ほたては食べやすい厚さにスライスする。
2.ホタテを皿に並べ、薄く塩(分量外)を振り、キウイフルーツ、オリーブオイル、うす口醤油、米酢を混ぜたソースをかける。
文・写真=樋口 直哉
今回ストーリーに登場したワインは…
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