イタリアワインの変革期から、40年近くアンティノリの歩みを見続けてきた宮嶋勲さん。
ピエロ・アンティノリとの出会いや、若き日のレンツォ・コタレッラとの交流、そして数々のワイナリーへの訪問を通して見えてきたのは、人を信じ、時間をかけて価値を育てるアンティノリの姿勢でした。
長年にわたり間近で見てきた宮嶋氏が、その強さの理由を紐解きます。
解説してくれるのは、宮嶋勲さん
京都府出身。東京大学経済学部を卒業後、1983 年から1989 年までイタリア・ローマにて新聞社に勤務。イタリアと日本を行き来しながら「ワインと食」をテーマに執筆活動を行う傍ら『ガンベロ・ロッソ・レストランガイド』の執筆にも携わり、同日本語版の責任者を務める。また、ワインセミナー講師や講演活動も行っている。
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イタリアワイン・ルネッサンスを牽引したアンティノリ
私がイタリアワインに関わり始めた1980年代のアンティノリはまさにイタリアワインの導き手であり、希望の光だった。
1970年代までのイタリアワインは「比較的安価で、それなりに美味しいワイン」という位置づけで、コルモ(藁製の覆い)に包まれたフィアスコ瓶のキアンティや、シンプルだが飲みやすいソアーヴェ、水代わりに楽しめるヴァルポリチェッラなどがその代表であった。
ただ、イタリアは古代から「ワインの大地」と讃えられた偉大な潜在力を持つワイン産地だ。「こんな屈辱的な地位に甘んじているわけにはいかない。フランスに負けない偉大なワインを造ろう」と意欲的な生産者が出始めた。
それにより1980年代以降のイタリアワインは急速な近代化、高品質化を実現する。のちにイタリアワイン・ルネッサンスと呼ばれる動きである。その先駆者にして、最も輝いていたリーダーがアンティノリというわけだ。
イタリアワイン・ルネッサンスの主役の多くが活躍を始めたのは1970年代末から80年代にかけてであるが、その頃にすでにティニャネロやサッシカイアは名声を確立していた。そして、将来イタリアワインが歩むべき道を示していた。
ピエロ・アンティノリが自らの醸造責任者ジャコモ・タキスを送り込んで生まれ変わらせたサッシカイアが市場に出回るようになったのは1968年ヴィンテージからで、ティニャネロは1971年がファーストヴィンテージだ。
当時イタリアではタンニンと酸が強いワイン(サンジョヴェーゼやネッビオーロ)を何年も大樽で熟成させて、少しでもやわらかくしてからリリースするということが行われていた。ただ、それによりワインは果実味と活気を失い、渋くて、酸っぱく、疲れて、痩せたワインとなってしまっていた。
それに対してタキスが手掛けたサッシカイアやティニャネロは、ブドウをちゃんと成熟させ、喜ばしい果実味をしっかりと抽出して、それをバリック熟成により固定し、早めに瓶詰めしたワインだった。
生き生きとした果実味を持ち、タンニンがまろやかな、喜ばしい近代的ワインとなっていた。
多くのイタリアワイン生産者がティニャネロやサッシカイアのようなワインを造ろうと、栽培、醸造を近代化し、温度管理のできるステンレスタンク、バリック熟成を導入した。アンティノリはイタリアワイン・ルネッサンスの規範となっていたのだ。
アンティノリに魅せられた1980年代
1980年代にローマに暮らしていた私も例に漏れず、アンティノリのワインに熱狂した。サッシカイア、ティニャネッロに続いてソライアもリリースされ、大いに話題となっていた頃だ。
レ・ペルゴレ・トルテ、フラッチャネッロ・デッラ・ピエーヴェ、フォンタッローロなど新しいタイプのサンジョヴェーゼが次々にリリースされ、トスカーナワイン界が活気づいていたが、その中で特に印象に残ったワインが二つある。
アンティノリの600周年を記念して1985年にリリースされたセチェンテナリオとサッシカイア1985年ヴィンテージである。
セチェンテナリオはマグナムのみでリリースされ、ティニャネロ1982年ヴィンテージの最良のロットをベースにしたものとされていた。チェリー、カシスなどの豊潤な果実のアロマに、シナモン、バニラ、ハーブが混ざり、複雑かつ深みのある香りがとても魅惑的であった。
口中では華やかな果実味と絹のようなしなやかな口当たりが印象に残った。当時イタリアワインが到達することができる最高峰に思えたものである。
ジャコモ・タキスのワインに共通する精緻な味わいと享楽的なふくよかさが、まさにあの時代のアンティノリを象徴していた。
のちに伝説となるサッシカイア1985年ヴィンテージだが、リリース時は25,000リラ(当時の交換率で2500円ほど)だったこともあり、本当に浴びるように飲むことができた。
サッシカイア独自のデリケートな香りと絹のような口当たりが素晴らしかった。凝縮感があるのに、飲みやすいという独自のスタイルで、これもその後のイタリアワインの方向性を示したワインであった。
当時、私はスペイン広場近くのワインショップで毎週月曜日の営業時間終了後に行われるワイン会に参加していた。そのメンバーの一人がレンツォ・コタレッラだった。
当時はカステッロ・デッラ・サラの支配人兼醸造責任者だったが、毎週ウンブリアから車を飛ばして参加する意欲的な若者だった。
レンツォはチェルヴァロ・デッラ・サラを生み出し、新進気鋭の醸造家として名声を高めつつあったが、ウンブリアのワインを担当していただけで、ティニャネロやソライアといった赤ワインに関してはタキスが全てを行っていた。
ただ、レンツォの話から想像するアンティノリ社は非常に風通しがよく、従業員が自由に伸び伸びと働ける社風であるように思えた。
ピエロ・アンティノリという稀有なリーダー
ピエロ・アンティノリに初めて会ったのは1980年代末である。当時50歳を過ぎたばかりのピエロはまさにまさに脂が乗り切り、勢いがあった時代で、やることなすこと全てが的中しているように見えた。
かなりエネルギッシュでぎらついた人物を想像していたが、その期待は見事に裏切られた。目の前に現れたピエロは、驚くほど物静かで、上品で、紳士的だった。
この人のどこにあれほど革新的なワインを次々に生み出すパワーが隠されているのかと驚いたものである。その功績を知らなければ、のどかな田園生活を送る貴族に思えただろう。
ただ、しっかりと相手を見つめて落ち着いた口調で話す瞳の奥に深い叡智が宿っているような印象を受けた。
その点、溢れんばかりの活力に満ち、異常に速いスピードで大きな声で話すピエモンテの雄、アンジェロ・ガヤとは好対照である。アンジェロが自ら先頭に立って道を切り開くスーパーマンだとすれば、ピエロ・アンティノリは優れた人材を選び、それを巧みに動かして、改革を実現してしまう優れた戦略家だ。
自分は微笑んでどっしりと構えているだけで、周りが自然と動いて、全てがうまく実現してしまうといったような人徳を感じさせるのである。
ピエロは何よりも卓越したヴィジョンを持った人だ。
醸造責任者であるジャコモ・タキスを表舞台に担ぎ出して、スポットライトを当てたこともその一例だ。1980年代のイタリアワインはフランスに大きく後れを取っていて、その差を急速に縮める必要があった。
何よりも重要な栽培の改革は当然行ったが、その成果が出るには何年もかかるので、とりあえずは醸造の革新により品質向上を図ったのが当時のイタリアワインだ。
その主役である醸造家をスターの座につかせ、「新しいイタリアワイン」に注目を集めたのである。
実際アンティノリだけにとどまらず、イタリアワイン全体に醸造家ブームが起こり、スターエノロゴが次々に誕生した。
その中にはレンツォの兄で醸造コンサルタントだったリッカルド・コタレッラもいた。そして様々な醸造家が華々しく活躍するイタリアワインに世界の注目が集まったのである。
スターとなったタキスを惜しみなく他の生産者に「貸して」、イタリアワイン全体の底上げを図ったピエロのヴィジョンについてはすでに述べた。
ピエロの天才的直観がいかんなく発揮されたのは1993年にレンツォ・コタレッラを醸造責任者に選んだ時であろう。ジャコモ・タキスの才能があまりに偉大で、功績も大きかったので、誰もがその後継者選びには興味津々だった。
レンツォは醸造家として成功を収めていたが、基本的に白ワインの専門家だった。一方、当時のアンティノリは何と言っても赤ワインの生産者だった。誰もが「白ワインしか造ってこなかった(カステッロ・デッラ・サラでも少量の赤ワインは造っていたが)レンツォに、アンティノリ本社を任せても大丈夫か?」と心配したし、特に社内での反発は相当強かったとレンツォが後で教えてくれた。
ただ、その後のアンティノリの大躍進、赤ワインの品質向上を見ると、ピエロの選択はやはり大正解だった。しかもすでに述べたようにレンツォは経営者としても驚くべき才能を発揮し、アンティノリの世界的発展を実現したのである。
100年後を見据えるアンティノリ
私がちょうど毎週レンツォと会っていた頃にアンティノリは拡大への第一歩を踏み出していた。1985年にペポリ、1988年にバディア・ア・パッシニャーノを手に入れたのだ。
その後、グアド・アル・タッソ、ラ・ブラチェスカ、プルノット、ピアン・デッレ・ヴィーニェ、ファットリーア・アルドブランデスカ、トルマレスカ、イエルマンなど新たなプロジェクトが始まると私は現地に飛んで、40年近くにわたりアンティノリの発展を見てきた。
アンティノリがワイナリーを買収したり、新たなプロジェクトを始める時は常に100年後を見据えている。短期スパンの投資をすることはない。
急ぐことなく、じっくりとテロワールを研究し、本当に価値のあるワインを造れるようになるまで待つ。カリフォルニアのアンティカでは、納得できる品質のワインができるまで14年間も自社名義のワインをリリースしなかったことはすでに述べた。
同じようなアプローチは全てのワイナリーに共通している。1994年に完全に手に入れたピエモンテのプルノットも長い間試行錯誤を繰り返し、ようやく独自のスタイルを確立したのは20年ほど経ってからであった。
1995年に始めたモンタルチーノのピアン・デッレ・ヴィーニェでも、アンティノリらしいスタイルが完成したのは2007年ヴィンテージ以降である。
1999年に創設したフランチャコルタのモンテニーザでもしばらくは驚くほど控えめに活動していて、近年ようやく本格的活動を始めた印象を受ける。
このような余裕がある戦略をとることができるのは、株主や配当に縛られない家族経営であるからだ。ただ、どれほど時間がかかったとしても、最後には必ずアンティノリ・スタイルとでもいえる洗練された、安定した品質のワインを生み出してきた。
キャンティ・クラシコ地区にサン・サーノ、カプライア(現ブイアーノ)、チリアーノと大きな農園を3つも購入したのに、しばらく全く表に出てこなかったので、誰もが「あれほど大きな投資をして、何をするつもりだ」と疑問を抱いた。
ところが2024年に沈黙を破り、見事なキアンティ・クラッシコ・グラン・セレツィオーネを3つリリースして、世界を驚かせた。焦らず、余裕をもって、静かにプロジェクトを進めるのがアンティノリ流だ。
人を信じ、品質を追い続ける
アンティノリを長年にわたり取材してきて、常に感心するのは従業員がのびのびと働いていることである。スタッフを全面的に信頼して、大きな裁量を与えて、活躍させる社風は、若き日のレンツォ・コタレッラがカステッロ・デッラ・サラで自由に新しいワインに挑戦していた1980年代から全く変わっていない。
何年も試行錯誤が続き、望む結果が出なくても、急かさず、挑戦をじっくりと見守る風土があるのである。スタッフにとっては実にやりがいがある職場だ。
実際、退職するスタッフがほとんどいない。プルノットの経営・醸造責任者のジャンルカ・トレンゴは25年以上にわたりプルノットを牽引しているし、ピアン・デッレ・ヴィーニェの支配人兼醸造責任者のファビオ・ラットも同じく長年働いている。
これは醸造家だけでなく、PR、販売などのスタッフも同じである。社員を大切にする社風なので、皆が満足して幸せに働いている印象を受ける。その自由な気風により、社員は存分に力を発揮することができるし、次々と優れた人材が集まってくるのだ。
アンティノリがこれほど急成長を遂げられた背後には、利益の全てを最新の醸造設備、畑の取得、研究開発へ惜しみなく再投資してきたことがある。アンティノリ家は配当を受け取らず、利益は現場に「再投資」する品質至上主義なのである。
アンティノリのどのワイナリーを訪問しても、常に感じる一貫したスタイルがある。全てが控えめで、洗練されているのに、押しつけがましいところが一切ない。巨大で超未来的なバルジーノにあるワイナリー(本社)でも、これ見よがしなところは全くなく、むしろ静謐さを感じさせる。
このスタイルはワインにも反映されているように思える。アンティノリに品質の高さを誇示するようなワインは存在しない。どの価格帯でも安定した品質で消費者の絶対的信頼を得ているにもかかわらず、控えめなスタイルである。
真にワインを愛する人にわかってもらえればいいという謙虚さが感じられ、アンティノリのワインを洗練されたものにしている。
アルビエラ・アンティノリ(ピエロの長女で現会長)が「ティニャネロの愛好家は世界中にいるが、その中にはこのワインを造っているのがアンティノリだということを知らない人も多いのよ」と笑いながら教えてくれた。
アンティノリという名前が目立たなくても、ボトルに詰められたワインの品質が高ければ、それを求める消費者はいる。まさにアンティノリ社を貫いている哲学である。
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