【Mr.イタリアワインが紐解くアンティノリ】アンティノリは何を受け継ぎ、何を変えたのか
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アンティノリは、600年以上にわたり家族経営を続けるイタリア屈指の名門ワイナリーです。その歩みは単に伝統を守る歴史ではなく、時代ごとに革新を重ねながらイタリアワインの可能性を切り拓いてきた歴史でもあります。
なぜアンティノリは時代を超えて愛され続けるのでしょうか。イタリアワインに造詣の深い「Mr.イタリアワイン」こと宮嶋勲さんに歴史を語っていただきながら、その魅力と軌跡を紐解きます。
解説してくれるのは、宮嶋勲さん
京都府出身。東京大学経済学部を卒業後、1983 年から1989 年までイタリア・ローマにて新聞社に勤務。イタリアと日本を行き来しながら「ワインと食」をテーマに執筆活動を行う傍ら『ガンベロ・ロッソ・レストランガイド』の執筆にも携わり、同日本語版の責任者を務める。また、ワインセミナー講師や講演活動も行っている。
600年続く家族経営の歴史
トスカーナだけでなく、イタリアを代表するワイナリー「アンティノリ」は600年を超えるワイン造りの歴史を誇る名門である。しかも、ずっとアンティノリ家による家族経営で、今は27代目が活動を始めている。
その輝かしい歴史は単に伝統を守るだけでなく、常に改革を続けてきたからこそ実現できたものだ。革新精神こそがアンティノリ家のDNAで、アンティノリ社が世界的ワイナリーへと押し上げた。
まず、その長い歴史を簡単に振り返ってみよう。
最初にアンティノリ家の名前が文書に登場するのは1179年のことで、アッカリジオ・ディ・アンティノロ(当時はまだアンティノリではなく、アンティノロだった)がフィレンツェ郊外の土地を売ったという記録が残っている。
1202年にはフィレンツェに移り住み、1269年にはフェオ・ディ・アンティノロが絹織物業ギルトに参加している。ヨーロッパ最高峰の絹織物生産地として栄えるフィレンツェでアンティノリ家は順調に成功を収める。
1385年にはジョヴァンニ・ディ・ピエロ・アンティノリがフィレンツェのワイン商ギルトに参加しているので、当時すでにワインビジネスに携わっていたことがわかる。
フィレンツェの重要な貴族として絹織物業、銀行業、政界で活躍しながらも、ずっとワイン業を続ける。しかも人に任せるのではなく、どの世代でも常に家族の一員が直接ワイン業に携わってきた。
1491年にはニッコロ・ディ・トンマーゾ・アンティノリがフィレンツェ郊外の農園ヴィッラ・レ・ローゼを創設し、そこで造ったワインをフィレンツェで販売した。この農園は20世紀初めまでアンティノリ家のワイン造りの拠点となる。
1506年にはフィレンツェの中心に屋敷を購入、これが今も存在するパラッツォ・アンティノリで、2012年まで本社が置かれていた。今でもアンティノリのワインとトスカーナ料理を楽しめるレストラン「カンティネッタ」がある。
16世紀にはすでにアンティノリはワインを国内外に広く販売していたようで、カルロ5世軍がメッシーナの港で没収したワイン(マルヴァジア)を取り返してくれるようにメディチ家のコジモ1世に依頼するアレッサンドロ・ディ・ニッコロ・アンティノリの1543年の手紙が残っている。
1685年に出版されたフランチェスコ・レディの「トスカーナのバッカス」でもアンティノリのブランドは讃えられていて、すでに名声が高かったことがわかる。
1850年にはティニャネロ農園(当時47ヘクタール)を購入した。当時から、ワインを購入して、販売するのではなく、自社畑を所有して自らワインを造るという哲学を重視していたことがわかる。
1861年にイタリアは統一され、イタリア王国が誕生するが、それにもニッコロ・アンティノリが貢献している。1873年のウィーン万国博覧会ではアンティノリのワインが賞を獲得している。
ワインビジネスはますます重要性を増し、1898年にはマルケージ L & Pアンティノリ社が設立され、1900年にはフィレンツェに近いサン・カシャーノ村にワイナリーが建設された。輸出も伸び、アメリカ、アルゼンチン、ブラジルなどが重要な市場となっていた。
伝統を守るだけでなく、革新を続けた姿勢
常に新しいことに挑戦してきたのがアンティノリの歴史であるが、その一例が1908年に誕生した「グラン・スプマンテ・アンティノリ」だ。
当時としては珍しい瓶内二次発酵スパークリングワインで、1905年にシェフ・ド・カーヴのルシアン・シャルルマーニュをフランスから招聘して誕生させた。これは1990年代までイタリアを代表するスパークリングワインとして名声を誇った。
もう一つ革新的だったのは1928年に生まれたヴィッラ・アンティノリである。誕生させたのは現名誉会長ピエロ・アンティノリの父ニッコロ・アンティノリ侯爵で、長期熟成能力が高いキャンティを目指していた。
キャンティの多くがフィアスコ瓶に詰められた安酒だった時代に、ヴィッラ・アンティノリはボルドーボトルに瓶詰めされ、一族が所有するトスカーナの別荘(ヴィラ)の建物をラベルに描いていた。まさにボルドーの「シャトー・ワイン」に対抗する意図が明白な野心的挑戦であった。ヴィッラ・アンティノリは大成功を収める。
スーパータスカンの誕生
ニッコロ・アンティノリは先見の明を持った人で、当時トスカーナで主流だった農園支配人による伝統的ワイン造りが時代遅れになっていることに気づいていた。
醸造を近代化するために1961年にジャコモ・タキスを醸造責任者として雇う。タキスは書籍や文通を通じてボルドー大学のエミール・ペイノー教授からフランスの近代醸造学を学んでいた。
色が薄く、酸とタンニンが強く、ふくよかさに欠ける当時のサンジョヴェーゼには未来がないと考えたタキスは、いきいきとした果実味とやわらかく甘いタンニンを持つ近代的スタイルのワインを追求していく。
アンティノリの近代化を飛躍的に進めたのが1966年に社長になった25代目のピエロ・アンティノリ侯爵だ。類まれなヴィジョンと経営的才能を持つピエロ・アンティノリはジャコモ・タキスと二人三脚で革新的なワインを次々と生み出していく。
若く意欲に満ちたピエロはカリフォルニアを視察し、ロバート・モンダヴィと出会い大いに感銘を受ける。1969年からはエミール・ペイノー教授にコンサルタントを依頼する。
ティニャネロ農園のサンジョヴェーゼは品質が高かったので、そのブドウで近代的醸造を行い、新樽バリックで熟成させてみると、素晴らしい結果が出た。
記念すべきティニャネッロのファーストヴィンテージ1971である。二人は大いに満足し、ペイノーも太鼓判を押してくれた。
ティニャネロ農園には20世紀初めからカベルネ・ソーヴィニョンも植えられていた。1975年ヴィンテージのティニャネロ(1972、1973、1974は造られなかった)にそれをブレンドしてみたところ、優美さを保ちながらも、よりまろやかで、豊かな味わいとなった。
当時のキャンティ・クラッシコはカベルネ・ソーヴィニョンを使用することは認めていなかったし、白ブドウの使用も義務づけられていた。
サンジョヴェーゼとカベルネ・ソーヴィニョンのブレンドは最も格下のヴィーノ・ダ・ラヴォラというカテゴリーで売り出すしかなかった。「呼称より品質」という選択をしたわけだが、キャンティ・クラッシコと全く異なる斬新な味わいは注目を集めた。
それはトスカーナ的であると同時に国際的にも受け入れられやすい味わいで、ティニャネロは国内外で成功を収めた。スーパータスカンの誕生である。
スーパータスカンとは、DOCよりも格下のヴィーノ・ダ・タヴォラというカテゴリーで売られているワインでありながら、品質も価格もはるかに高く、国際的成功を収めたワインの総称である。
同じティニャネロ農園では、1978年ヴィンテージからソライアの生産もスタート。その後サンジョヴェーゼを取り入れたソライアも、大ブームを巻き起こす。
厳格でありながら、優美で、しなやかな味わいは、少し青っぽさが残るボルドーのワインとも、濃厚な果実味を持つカリフォルニアのカベルネとも全く異なり、非常にトスカーナ的で、スタイリッシュで、垢抜けしたスタイルだった。
もう一つのスーパータスカンの代表であるサッシカイアの誕生にもピエロ・アンティノリは深くかかわっている。
トスカーナ海岸地帯にあるボルゲリはワイン産地としては全く無名であったが、ボルドーワイン好きのマリオ・インチーザ・デッラ・ロッケッタはカベルネ・ソーヴィニョンとカベルネ・フランでサッシカイアというワインを造っていた。
それに興味を持ったピエロ・アンティノリ(マリオ・インチーザの甥にあたる)はタキスを送り込み、ワインの品質を劇的に向上させた。そして1968ヴィンテージからそれを配給するのである。みずみずしい果実味と繊細なタンニンが魅力的なサッシカイアは、従来のイタリアワインのイメージを覆す画期的なワインで世界的に高い評価を得る。
アンティノリを超えた、イタリアワイン全体への貢献
ピエロ・アンティノリは広いヴィジョンを持った人物で、アンティノリ社がブドウを購入していた生産者のところにジャコモ・タキスを送り込み、トスカーナワイン全体のレベルを底上げした。
カステッロ・デイ・ランポッラは農園のブドウのほとんどをアンティノリに売っていたが、タキスの助けを借りて、1980年にサン・マルコ(カベルネ・ソーヴィニョンとサンジョヴェーゼ)を誕生させ、これは代表的なスーパータスカンの一つとなる。
カステッリン・ヴィッラもピエロのおかげでタキスの助言を得ることができ、ワイナリーの基礎を築いた。
当時のタキスはフリーの醸造コンサルタントではなく、アンティノリ社の社員である。自分のライバルとなりうる生産者のところに自社の醸造責任者を送り込み、そのワインの品質を高めてあげるというのは、ワイン界では考えられないことであった(今でもまず考えられない)。
ただピエロ・アンティノリはトスカーナワインが広く成功を収め、名声が高くなると、アンティノリ社も確実にその恩恵を被ることをよく知っていた。
その寛大な姿勢はトスカーナにとどまらなかった。タキスはサルデーニャワイン・ルネッサンスの最大の功労者であるが、アルジオラスやサンターディといったサルデーニャワインを有名にした生産者がタキスを醸造コンサルタントとして頼っていたのは1980年代で、まさにタキスがアンティノリの社員だった時代だ。
トレンティーノ地方にあるテヌータ・サン・レオナルドも1980年代からタキスにコンサルタントを依頼して、著名なボルドーブレンドのサン・レオナルドで高い評価を得ている。
ピエロ・アンティノリがイタリアワイン・ルネッサンスの最大の立役者として今でも深く尊敬されているのは、自分のワイナリーの狭い範囲にとどまらず、イタリアワイン全体の品質向上に積極的に関与したからである。
人材を見いだし、挑戦を任せる経営
アンティノリ社は高品質白ワイン生産のために1940年にウンブリア州オルヴィエート地区にカステッロ・デッラ・サーラを購入していた。
1970年から1981年までオルヴィエート協会の協会長を務めたピエロ・アンティノリは、協会事務局長を務めていた若者の才能に目をつける。若き日のレンツォ・コタレッラだ。
1979年にピエロはレンツォをカステッロ・デッラ・サラの支配人として招き入れる。レンツォは期待に応えて、1985年に新しいスタイルの白ワイン「チェルヴァロ・デッラ・サーラ」を誕生させる。
バリック発酵、熟成によるシャルドネで、マロラクティック発酵を行い、長期熟成能力が高いワインだ。当時の中部イタリアでは珍しいタイプの白ワインだった。少しだけブレンドされる地元品種グレケットがフレッシュで、クリスピーなニュアンスを与え、独自の個性を形作っている。
チェルヴァロ・デッラ・サラは今でもイタリアを代表する白ワインの一つとしての地位を確立している。
レンツォは1987ヴィンテージから貴腐ワイン「ムッファート・デッラ・サラ」にも挑戦する。30歳を過ぎたばかりの若者に大きな権限を与え、自由に羽ばたかせることにより、カステッロ・デッラ・サラは活力に満ちた実験場となり、大きな発展を遂げる。
成長したレンツッォ・コタレッラは1993年からジャコモ・タキスの跡を継いでアンティノリ社全体の醸造責任者となり、今は社長も務めている。
優れた人材を見つけ、それを育てるピエロ・アンティノリの資質は、アンティノリ社が世界トップクラスのワイナリーに発展することに大いに貢献している。
チェルヴァロ・デッラ・サラ
白
リッチ&コンプレックス
イタリア白ワインの記念碑的存在。イタリア白ワインの歴史を変えた1本。鮮やかな果実味とミネラル感、樽の風味が渾然一体となった「イタリアのモンラッシェ」。 詳細を見る
4.5
(50件)2024年
11,000 円
(税込)
NEW
JS 95
自社畑への強いこだわりと事業拡大
トスカーナに目を戻すと、1985年にペッポリ農園、1987年にバディア・ア・パッシニャーノ農園と自社畑を増やしていく。
キアンティ・クラッシコ地区以外にも進出し、1990年からボルゲリのグアド・アル・タッソのプロジェクトが本格的に始まり、同じ年にヴィーノ・ノビレ・ディ・モンテプルチャーノ地区にラ・ブラッチェスカ、1995年にはモンタルチーノにピアン・デッレ・ヴィーニェを創設する。
トスカーナ以外にも進出し、1994年にバローロの名門プルノットを買収し、1999年からはフランチャコルタにモンテニーザを創設する。
その後も買収は続くが、それは次回以降で詳細に述べることにする。
重要なことはアンティノリが自社畑を圧倒的に重視していることで、自分たちが畑で育てたブドウから造ってこそ望む品質を保つことができると考えていることである。
実際、キアンティ・クラッシコ・ヴィッラ・アンティノリは望むレベルのブドウが十分に得られなくなったので、2001ヴィンテージからDOCGキアンティ・クラッシコを抜けて、IGTヴィッラ・アンティノリ・ロッソとして売られるようになった。
その後、畑を増やして、高品質ブドウを手に入れることができるようになったので、2011ヴィンテージからヴィッラ・アンティノリ・キアンティ・クラッシコ・リゼルヴァを復活させた。
現在アンティノリはイタリアに約3000ヘクタールのブドウ畑を所有していて、生産者協同組合を除くとイタリア最大のブドウ畑の所有者であるが、その背後には自社畑への強いこだわりがあるのである。