【ワインにまつわるショートショート】vol.10 洞窟の音楽

お気に入り追加

エノテカタイムス
公開日 : 2025.11.4
更新日 : 2025.11.4
シェアする
vol.10 洞窟の音楽

vol.9『月の満ち欠け』はこ

ちら

樋口 直哉 Higuchi Naoya
樋口 直哉 Higuchi Naoya

作家・料理家。服部栄養専門学校卒業後、料理教室勤務や出張料理人などを経て、2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。作家として作品を発表する一方、料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『スープの国のお姫様』(小学館) 『おいしいものには理由がある』(角川書店) 『最高のおにぎりの作り方』(KADOKAWA) 『ぼくのおいしいは3でつくる』(辰巳出版)

この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 案内された部屋はまるで洞窟の内部だった。若手の建築家の設計だという建物は3メートルほど掘り下げた地面を型枠にしてコンクリートを流し込み、固まってから土をかき出したそうだ。そうしてつくられた壁は土がつくる模様で、本物と見分けがつかない。


「すごい家ですね」


「普通、建築には外側があるが、洞窟には入口と内部しかない」部屋を見渡す私に老作曲家はそう説明した。「外の世界から完全に隔絶され、自らと向き合える。宗教的な儀式が行われてきたのはそのためだ」


 彼に会ったのは六年ぶりだった。六年前、ある地方で美術館が開館した時、オープニングを記念して開かれたレセプションで私たちの会社がディレクションを、彼が音楽を担当して以来だ。気難しいことで知られる彼だが、私のことを妙に気に入ってくれたらしい。それから関係ができたが、彼はそれ以降、曲を書くのをやめ、表舞台から姿を消した。引退したのだろう、と誰もが思っていたが、突然「家を建てたので、遊びに来るといい」という連絡をもらったのだ。


 私たちはダイニングルームにいて、テーブルの上には水が入ったグラスとロウソクが置かれている。ロウソクの小さな灯りが揺らめくたびに、壁に影を作っている。壁を隔てた隣にキッチンがあって、彼がお気に入りのレストランのシェフとソムリエに料理を頼んでいる、という話だ。


 やがて、シャンパーニュとアミューズ・ブーシュが運ばれてきた。アミューズ・ブーシュは春巻きの皮のような生地でエビを巻き、それを揚げたものにバジルのソースを添えた一品だった。


「これはちょっと好みじゃないな」テーブルにシャンパーニュが置かれるなり、作曲家は首を横に振った。「熟成香が強すぎる。家の冷蔵庫に入っているものを開けてくれ」


 ソムリエは小さく頷くと、シャンパーニュを下げ、別のグラスをテーブルに運んできた。私はそのワインを一口飲んだ。青リンゴのような酸味があり、細かな泡が口のなかを刺激した。エビを食べてみるとその甘さが際立ち、もう一口ワインを飲むと、口のなかの油がさっと流された。


「スペインのカヴァだ」と作曲家は笑った。「揚げ物にはこっちのほうが合う。値段は最初のシャンパーニュよりもずっと安いが、味が劣っているわけでは決してない」


「ここにどうして家を建てられたんですか?」


 私がそう尋ねると作曲家は咳払いを一つしてから、水の入ったグラスを指で弾いた。キンという高い音がした。


「この音がなにかわかるか?」


 私は首を横に振った。


「A。さっき君が来る前にチューニングしたんだが、まだほんの少し狂いがある。オーケストラは演奏のはじめに音を合わせるが、それはその日の気温や湿度でピッチが不安定になるからなんだ。私はそれが我慢できなかった。私が電子音楽に傾倒したのは一ヘルツも狂いがないからなんだ」


 私は頷いた。六年前に彼が書いた曲も古臭さを感じる電子音楽だった。


「はじめに嫌になったのは人の声だった。人の声ほど不安定なものはない。それから完璧な音を探して、電子音楽に行き着いた。でも、いつからか曲が書けなくなった。最近ようやく気づいたんだ。完璧な音などない、ということにね。あるとすればいかに感動を与えられるか、それだけだ」


 老作曲家はいたずらっぽく笑うと立ち上がり、部屋の隅に置かれたオーディオのスイッチを押した。やがて、スピーカーから小さな音のつながりが聞こえてきた。人のざわめきに似た音だ。これと似た音をどこかで聞いたことがある……目の前にあるワインの泡が弾ける音だ。発酵によって生じる泡が弾けては消える音。


「カヴァという名前はカタルーニャ語でセラーを意味するが、ワインを熟成させる洞窟に由来するらしい。人々は神のいない時代に洞窟の壁に自らの内面を描いた。それが芸術のはじまりだ。そんな空間に身をおけばまた曲が書けるかもしれない」


 作曲家の目にはまだ力があった。私は頷き、食事の続きを楽しんだ。

エビの春巻き バジルソース


【材料】 (2人分)

・エビ 4尾

・春巻きの皮 4枚

・塩・胡椒 少々

・オリーブオイル 小さじ1

・バジルソース(市販) 適量

・揚げ油 適量


【作り方】

1. エビは頭があれば取り除き、背ワタを抜く。腹に切り込みを入れ、筋を伸ばしてから塩、胡椒、オリーブオイルを振る。揚げ油を180℃に熱する。

2. 春巻きの皮で1のエビを巻き、巻き終わりを下にして揚げ油を入れる(両端を閉じる必要はない)。油が少ない場合は裏返し、全体がパリッと色づくまで揚げ、油を切る。器に盛り付けバジルソースを添える。


文・写真=樋口 直哉

今回ストーリーに登場したワインは…

プロジェクト・クワトロ・カヴァ プレミアム・レゼルヴァ
750ml

プロジェクト・クワトロ・カヴァ プレミアム・レゼルヴァ

  • フルーティー&バランス

  • 2021

    2,420

    (税込)

『エノテカタイムス』は全国のワインショップ・エノテカにて配布中です。ぜひお手に取ってご覧ください。 ※一部対象外の店舗がございます。 ※数に限りがございます。期間中でも配布が終了している場合がございます、予めご了承ください。

    この記事をシェア

    公式SNS・APP

    最新情報やワインの読み物を 毎週お届けします

    line お友達登録

    お買い物に便利! アプリ限定クーポンも随時配信

    公式アプリ

    ストップ!20歳未満飲酒・飲酒運転。
    妊娠中及び授乳中の飲酒は、胎児・乳児の発育に悪影響を与える恐れがあります。

    ほどよく、楽しく、良いお酒。のんだあとはリサイクル。

    エノテカ株式会社はアサヒグループです。