vol.7『茶色いハーブのカプ
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作家・料理家。服部栄養専門学校卒業後、料理教室勤務や出張料理人などを経て、2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。作家として作品を発表する一方、料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『スープの国のお姫様』(小学館) 『おいしいものには理由がある』(角川書店) 『最高のおにぎりの作り方』(KADOKAWA) 『ぼくのおいしいは3でつくる』(辰巳出版)
この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
妻がお好み焼きを焼いているあいだ、柴田は箸と麦茶を用意した。仕事を辞めてから料理をする機会はすっかり減った。
「焼けたわよ」
水曜日の昼、部屋のなかはひんやりしているが、窓の外は熱い日差しが照りつけている。
「あれ」お好み焼きに青のりの瓶を振りかけた柴田は首をかしげる。「香りがぜんぜんないな」
「そう?」
彼は瓶を手に取り、裏の表示を確かめた。
「ヒトエグサじゃないか。青のりは原材料がスジアオノリじゃないと。アオサとかヒトエグサは同じアオノリだけど香りが弱い」
「青のりは青のりです」と妻は毅然とした調子で言った。「うるさいこと言わない。そんなだから仕事をクビになったんでしょ」
日本料理の料理人だった柴田は数ヶ月前までホテルの社員食堂でチーフを務めていた。ホテルの経営陣が変わったことで食材の仕入れにも低い原価が求められるようになった。そこにストレスが溜まった彼は辞表を提出した。そんな経緯だ。
「クビになってない。どうせ定年まであと3年だったから、早めに辞めただけだ」
「はいはい。このあいだの話はどうなったの?」
「まだ、返事をしてない」
一昨日、知り合いの会社から週に二、三日でいいので調理場に入って若いスタッフの面倒を見てくれないか、という誘いを受けたばかりだが、彼は返事に困っていた。料理人が思う存分働ける期間は短い。身体も思い通り動かなくなるし、腰も痛くなる。年を取った自分がいまさら、働けるのだろうか。誰かの歌ではないが、新しい船を動かすのは古い水夫ではない。
食事を終え、13時を回る頃、妻はパートに出ていく。午後、ぽっかり空いた時間、図書館に行き、のんびりと本を読む。一通り時間が過ぎると駅前に戻り、駅ビルの地下にある魚売り場で刺身や干物などを買う。これで酒を飲むのが彼の楽しみだ。
一階のワイン売り場のところで彼は立ち止った。見覚えのあるラベルが目に止まった。昔飲んだ記憶がある。ボトルのラベルにはシャブリとあった。有名なワインだ。シャープな酸味が印象的な味わいで、石灰質の土壌が生む海を懐かしむミネラル感があったはずだ。
「これ、リーズナブルでおすすめです。シャブリはご存知ですか?」
若い男性店員の話に彼は耳を傾けた。
「もちろん」
名前だけは、という言葉を彼は飲み込んだ。
「シャブリのワインは昔、樽に詰められて船でパリまで運ばれ、戻ってきた空の樽にワインを詰めて、またパリに運ぶという慣習があったそうです。今ではステンレスタンクを使っているところも多いですが、そもそも新しい樽を使う伝統がないワインなんです」
「へぇ。それだとなにがいいの?」
「樽の香りが強く付かないので、ブドウの持ち味が素直に生きるんです。古い樽には古い樽の良さがある、と言ったところでしょうか」
納得した彼はワインを一本購入し、家に帰った。リビングに行くと妻がそうめんを茹でている。
「ちょうど良かった。パスタにしようと思ったんだけどなかったからそうめんを茹でてたところ」
妻は茹で上がったそうめんを水で締めると、しらすや青のり、白だし、オリーブオイルなどで和えた。
「あなたがうるさいから買ってきたわよ。ちょっと高い青のり。たしかに香りがいいわね。こんなに違うとは思わなかった」
「だろう」と彼は笑った「ワインを買ってきたから一緒に飲もう」
彼らは一緒に早めの夕食を楽しむ。オイルで和えた冷製パスタ風のそうめんはワインの酸味でさっぱりとし、お互いを引き立てあっている。仕事、引き受けてみようか、と彼は思った。古い樽には古い樽だからこそできることがあるかもしれない。自分にできることはまだある、と。
しらすと青のりの和えそうめん
【材料】 (2人分)
・そうめん 50g
・オリーブオイル 大さじ1/2
・白だし 小さじ1
・青のり 小さじ1
・しらす 15~20g
【作り方】
1.ボウルにオリーブオイル、白だし、青のり、しらすを合わせる。
2.袋の表示時間を参考にそうめんを茹で、冷水で洗う。さっと水気を切り、 1のボウルに入れてソースと和える。
文・写真=樋口 直哉
今回ストーリーに登場したワインは…
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