ワイン史を変えた!「パリスの審判」とは?

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公開日 : 2018.12.19
更新日 : 2023.7.12
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パリスの審判

4,000年とも言われる世界のワイン史の中で、「産業革命」に匹敵するほどの大事件が1976年の「パリスの審判」でしょう。

今からほんの40年前、銀河系の人が「ワインはフランス、フランスはワイン」と考え、フランスでしか高級・高品質ワインはできないと信じていました。

無名のカリフォルニアのワインがフランスの一流どころを撃破し、フランス以外でも高品質ワインができることを世界中に知らしめたのが1976年5月24日のパリでの試飲会、通称、「パリスの審判」です。

今回は、「パリスの審判」で何が起きたのかだけではなく、その背景や、その後の「遺恨試合」も併せて解説します。

目次

パリスの審判の背景

なぜフランスがワイン大国になったのか?」でも書きましたが、フランスは長年の苦労の末、ワイン大国としての名声と実績を築きました。フランスと長い付き合いがあったイギリスには、フランスの銘醸高級ワインが集まりました。

そんな社会的背景の中で、1941年、スティーヴン・スパリュアはイギリスの裕福な貴族階級に生まれます。スパリュアは、同じ年頃の子供がサッカー・ボールを蹴っていた頃、別荘の地下セラーにこもり、ワインのボトルを生産地区別に並べていました。

学校を卒業しても定職に就かず、ロンドンの様々なワインショップにてパートタイムで働き、ワインの知識と経験を積みました。1970年にパリへ渡り、翌年、セーヌ河右岸の小さなワインショップ、「カーヴ・ド・ラ・マドレーヌ」を買い取ります。スパリュアには、ワインは「熱情と命を懸けた趣味」でした。

当時、アメリカ大使館、米国系銀行、IBM等の大企業に勤務する「パリのアメリカ人」はフランスに対し微妙な劣等感があり、「“金はあっても文化がない”とフランスはアメリカを見下しているのではないか」と、肩身の狭い思いをしていました。

そんな中、スパリュアは英語でワインを細かく説明し、試飲もさせてくれる、格付けシャトーを知らなくても馬鹿にしないと「カーヴ・ド・ラ・マドレーヌ」はアメリカ人の間で大繁盛しました。

1972年にワインショップの隣の鍵屋が倒産し、そこを買い取って、ワイン学校を始めました。これが世界初のワインスクール、「アカデミー・デュ・ヴァン」です。

当初、ワインショップもワインスクールも、スパリュアが1人で切り回していましたが、ある日、パリ在住のアメリカ人、パトリシア・ギャラガーが「仕事をください」と電話をかけ、面接を受けて即日採用となりました。ワインの素人だったギャラガーでしたが、猛勉強をしてアカデミー・デュ・ヴァンの最初の講師となりました。

英語で教えてくれる唯一のワインスクールということで、アメリカ人やイギリス人が押し寄せました。受講生の第1号は、夏休みでパリへ旅行に来たアメリカの大学生です。当初の授業は英語だけでしたが、フランス人からも受講したいと要望があり、フランス語のワイン講座も開始しました。

「カーヴ・ド・ラ・マドレーヌ」は、パリで英語を話してくれる唯一のワインショップだったので、アメリカ人の消費者だけでなく、カリフォルニアワイン生産者も立ち寄り、自分のワインを置いていくようになりました。

こうして、スパリュアは、カリフォルニアワインの素晴らしさと可能性を知ることになります。

「パリスの審判」の前夜

スパリュアとギャラガーは、「来年の1976年は、アメリカ建国200周年なので、何かイベントをして、ワインショップとワインスクールの宣伝をしたい」と思いました。

そこで、これまで飲んだカリフォルニアワインがとても美味いので、フランスの超一流のワインと赤白で対決させてみようと考えました。

スパリュアは、「もちろん、フランスが圧勝するだろうが、カリフォルニアワインが一つでも上位に食い込めば、カリフォルニア側は自信を持つだろう」と思いました。

スパリュアも、カリフォルニアの生産者も、世界中の誰一人としてカリフォルニアが勝つと思っていなかったでしょう。それ以前に、そんな対決の計画があることも知りませんでした。

「パリスの審判」のワイン一覧

スパリュアは、フランスとカリフォルニアの白ワインを合計10本、同じく赤ワインを10本集めました。後に、こんなに大事件になると思わなかったスパリュアは、自分で良いと思った生産者とヴィンテージを適当に選びました。また、「アメリカ建国200周年」の記念イベントなので、カリフォルニアに注目してほしいと思い、カリフォルニアワインを多く選びました。

「パリスの審判」のワインは以下の通りです。

白ワインの部(シャルドネが10本)

フランス勢(ブルゴーニュの銘醸白ワインが4本)
・ムルソー・シャルム / ルーロ 1973年
・ボーヌ・クロ・デ・ムーシュ / ジョセフ・ドルーアン 1973年
・バタール・モンラッシェ / ラモネ・プルドン 1973年
・ピュリニー・モンラッシ / ドメーヌ・ルフレーヴ 1972年

カリフォルニア勢(6本)
・シャトー・モンテレーナ 1973年
・シャローン・ヴィンヤード 1974年
・スプリング・マウンテン 1973年
・フリーマーク・アベイ 1972年
・ヴィーダー・クレスト 1972年
・デイヴィッド・ブルース 1973年

赤ワインの部(カベルネ・ソーヴィニヨン系が10本)

フランス勢(ボルドーの格付けワインが4本)
・ムートン・ロートシルト 1970年 (1級)
・オー・ブリオン 1970年 (1級)
・モンローズ 1970年 (2級)
・レオヴィル・ラス・カーズ 1971年 (2級)

カリフォルニア勢(カベルネ・ソーヴィニヨン主体の赤が6本)
・スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年
・リッジ・モンテ・ベロ 1971年
・マヤカマス 1971年
・クロ・デュ・ヴァル 1972年
・ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年
・フリーマーク・アビー 1969年

審査員一覧

スパリュアは、パリだけでなくフランス中のワインのイベントにも積極的に参加しました。知識や経験、試飲能力が高いことから、フランスのワイン界ではちょっとした有名人でした。

自分のコネを最大限に使い「パリスの審判」には以下のように、フランスのワイン界を代表する9人が審査員として参加することになりました。

・オベール・ド・ヴィレーヌ
DRC(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ)の共同経営者

・ピエール・タリ
ボルドーの2級格付けシャトー、ジスクールのオーナーであり、格付け委員会の会長

・クリスチャン・ヴァネケ
三ツ星レストラン「トゥール・ダルジャン」のシェフ・ソムリエ

・ジャン・クロード・ヴリナ
フランスを代表する三ツ星レストラン「タイユヴァン」のオーナー

・オデット・カーン
ワイン専門誌『ラ・ルヴュー・ドゥ・ヴァン・ド・フランス』の編集者

・ピエール・ブレジュー
AOC委員会の首席審査官

・ミシェル・ドヴァーツ
アカデミー・デュ・ヴァンの講師

・クロード・デュボワ・ミヨ
グルメ誌『ゴー・ミヨ』の販売部長

・レイモン・オリヴィエ
三ツ星レストラン「グラン・ヴェフール」のオーナー・シェフ

「パリスの審判」白ワインの部

1976年5月24日15時、パリのインターコンチネンタルホテルの一室で試飲が始まりました。

テイスティングは目隠し試飲で、ワインは目印のないボトルに移し替えてあります。また、赤ワインはヴィンテージが若いので、事前にデキャンタージュしました。

15時を過ぎ、スパリュアが審査員に挨拶をしました。アメリカ建国200周年を記念し、また、建国時のフランスの大きな功績を讃えて、このカリフォルニアワインの試飲会を開くこと、また、この中にスタイルの似たフランスワインも混ぜてある旨を述べました。

当初、9人の審査員は、カリフォルニアワインの試飲と聞かされており、フランスワインが入るとは知りませんでした。審査員は、「カリフォルニアワインは取るに足らぬ。飲めばすぐにわかる」と思ったのか、当日になってフランスワインが入っていると聞いても、何の異議を唱えませんでした。

(後に「パリスの審判」が大事件となった時、「フランス・ワインを入れると知っていたら参加しなかった。これは騙まし討ちだ」とクレームをつけた審査員がいました。)

試飲は白ワインから始まりました。

パリスの審判

この写真は、「パリスの審判」の様子を撮影した貴重なもので、中央が「パリスの審判の仕掛人」のスティーヴン・スパリュア、左がスパリュアのパートナーでアカデミー・デュ・ヴァン パリ校初代講師のパトリシア・ギャラガー(アメリカ人)、右側でグラス手に首をかしげているのが名門ワイン専門誌の編集者、オデット・カーン。

「パリスの審判」のように白ワインを10種類試飲する場合、今ならグラスを10個をぞろっと並べますが、当時は写真の通り2種類ずつ5回に分けて試飲しました。

採点は1人20点で、色、香り、味、バランスの各5点の合計となります。

なお、手前の皿に乗ったレモン状のものは、次のワインを試飲する前、口の中をニュートラルにするために食べるロールパン、スパリュアとカーンに間にある金属の容器はワインを捨てる吐器(スピトーン)、背景の草花は、インターコンチネンタルホテルの中庭です。

スパリュアは、インターコンチネンタルホテルの部屋を18時まで借りていました。当初、18時直前に試飲会を終わらせ、赤白の試飲結果をまとめて発表するつもりでした。

ところが、その部屋で18時から結婚式の披露宴があり、準備の都合で15分早く部屋を空けるように言われました。また、白ワインの試飲が終わり、赤ワインへ移るのにもたもたして時間を食い、スパリュアは、急遽、赤ワインをサービング中に、白ワインの結果を口頭で発表しました。

結果は以下の通りです。(赤字はカリフォルニアワイン。得点は9人の採点の合計)

白ワイン部門得点
1位 シャトー・モンテレーナ 1973年132点
2位 ムルソー・シャルム 1973年126.5点
3位 シャローン・ヴィンヤード 1974年121点
4位 スプリング・マウンテン 1973年104点
5位 ボーヌ・クロ・デ・ムーシュ 1973年101点
6位 フリーマーク・アビー 1972年100点
7位 バタール・モンラッシェ 1973年94点
8位 ピュリニー・モンラッシェ 1972年89点
9位 ヴィーダー・クレスト 1972年88点
10位 デイヴィッド・ブルース 1973年42点

「パリスの審判」赤ワインの部

白ワイン部門でカリフォルニアが勝ったことに審査員は大きな衝撃を受けました。世界中の人が、そして何よりプライドが高いフランス人は「ワインはフランス、フランスはワイン」と信じています。

そんなフランス人がカリフォルニアを勝たせたと分かれば、非国民扱いを受けるに違いありません。そう考えた審査員は、赤ワイン部門では、命を懸けてフランスを勝たせようとしたそうです。

そのとばっちりを受けたのが、ハイツがカベルネ・ソーヴィニヨン100%で造るマーサズ・ヴィンヤードです。同ワインは、ユーカリの香りで有名でした。審査員は、この香りでカリフォルニアワインと見抜き、点を下げたと噂されています。

赤ワイン部門の結果は以下の通りです。(赤字はカリフォルニアワイン。得点は9人の採点の合計)

赤ワイン部門

得点

1位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年

127.5点

2位 ムートン・ロートシルト 1970年

126点

3位 オー・ブリオン 1970年

125.5点

4位 モンローズ 1970年

122点

5位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年

103.5点

6位 レオヴィル・ラス・カーズ 1971年

97点

7位 マヤカマス 1971年

89.5点

8位 クロ・デュ・ヴァル 1972年

87.5点

9位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年

84.5点

10位 フリーマーク・アビー 1969年

78点

「カリフォルニアの勝利」が世界に発信

このようにして赤ワイン、白ワインの両方で、無名のカリフォルニアがフランスの超一流ワインに勝ったのです。

「パリスの審判」以前にも、フランス対カリフォルニアの対決は何度か開催されていますし、カリフォルニアが勝ったこともありましたが、何の話題にもなりませんでした。

その理由は二つ。「審査員が無名だった」と「試飲会での出来事を世界に発信する人がいなかった」ためです。

今回の「パリスの審判」は違いました。審査員はフランスを代表するトップ・プロです。また、タイム誌の記者、ジョージ・テイバーは、アカデミー・デュ・ヴァンでワインの授業を受けたことがあり、その縁で、講師のパトリシア・ギャラガーから頼まれ試飲会を取材しました。

テイバーはタイム誌の6月7日号に「Judgement of Paris」パリスの審判(注1)と題し、この試飲会の様子を1ページの記事を掲載。また、毎週水曜日に「ワイン・トーク」というワイン関係のコラムを載せていたニューヨーク・タイムズ紙は、6月9日、16日の2週連続で「パリスの審判」を取り上げました。

ニューヨーク・タイムズ紙の記事がダメ押しとなり、「カリフォルニアの勝利」は、フランス以外の世界の国々に急速に伝わり、世界の人々が驚きました。

フランスでは、事情が異なります。最初にこの記事を掲載したのはル・フィガロ紙で、3ヶ月も経った8月18日です。その上「目隠し試飲なのでまともに取り上げる必要はない」と否定的な論調でした。

当初、テイバーは、「試飲会への取材を依頼されたけれど、フランスが圧勝するのでニュースにならないだろう」と思っており、他に小さい事件でもあれば、そちらへ行くつもりでした。テイバーが取材していなかったら、「パリスの審判」は黙殺され「なかったこと」になっていたでしょう。

様々な幸運が重なり「カリフォルニアワインがフランスを撃破」のニュースは世界を駆け巡りました。これは、新世界ワインが世に出るきっかけであり、「カリフォルニア対フランスの遺恨試合」の始まりでもありました。

注1:「パリスの審判」とは、もともとはギリシャ神話の話で、元祖「美人コンテスト」です。

女神、テティスと、ぺーレウスが結婚しますが、その結婚式に、争いの神であるエリスは招待されませんでした。それを恨んだエリスは、式場に「最も美しい女神へ」と書いた黄金のリンゴを投げ込みます。最高位の女神・ヘラ、勝利の女神・アテナ、美の女神・アフロディーテの3人が「そのリンゴは私の物だ」と大喧嘩をします。

エリスの思惑が大成功。神々の主・ゼウスが困り、人間であるトロイの王子、パリスを「選考委員」に指名しました。各女神は「選挙運動」に走ります。ヘラが「私を選べば世界の支配者にしてやる」、アテナは「戦えば必ず勝たせてあげる」、アフロディーテは「世界一の美女を与える」と誘惑しました。パリス王子は、悩んだ結果、アフロディーテを選びました。

ご褒美の「世界一の美女」は、スパルタの王妃、ヘレナです。スパルタの王様が留守の間に、パリス王子はヘレナ王妃を連れ帰り、怒った王様がトロイと戦争をしました。この戦争が「トロイの木馬」で有名なトロイ戦争です。この話は、昔の絵画の有名なモチーフで、美女が三人、青年が1人、金のリンゴが一つあれば、この逸話が関係する絵です。

神話に登場する「パリス」王子と、フランスの首都、「パリ:Paris(英語読みでパリス)」の発音が同じなので、この試飲会を取材したタイム誌の記者、ジョージ・テイバーが記事のタイトルを「パリスの審判」としました。「パリス王子の選択」と「フランスのパリでの選択」をかけた、一種のダジャレですね。非常に気の利いたダジャレだったので、世界中、日本でも、この試飲会を「パリスの審判」と呼びます。

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