【第四話】テロワールと風土

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公開日 : 2024.1.12
更新日 : 2024.1.12
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ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第4回目は、ワインの表現でよく聞く「テロワール」を取り上げます。

※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。

著:鈴木 正文


編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。

「テール」(terre)というフランス語は、ラテン語の「テラ」(terra)が語源で、意味は「陸地」とか「土地」「土壌」である。英語ならsoilとかearthとかにあたる。ラテン語の「テラ」は、「領地・領土」や「地域」を意味する「テリトリー」(territory)の語源でもあり、terra(テラ)からは「ters-」という接頭辞も派生して、たとえば、英語で「テレストリアル」(terrestrial)といえば「地上の」とか「地球の」という意味になる。ちなみに、スピルバーグの映画『E.T.』は「Extra-Terrestrial」の省略形で、「地上=地球の外の」という意味だ。映画の原題は『E.T. The Extra-Terrestrial』と「The」がついているから「地球外生命体」のことである、ということはさておき、「テラ」または「テール」を、「テロワール」の元になった語として記憶するワイン愛好家は少なくないであろう。


このフランス語の「テロワール」は、英語でもドイツ語でもイタリア語でもフランス語とおなじつづりであり、したがって、日本語も、カタカナ表記で「テロワール」とされていて、いわば翻訳不能語の扱いを受けている。日本語でそれをいうとなると、それゆえ一単語ですませることはできない。『広辞苑』などの尊敬されている日本語辞書の見出し語にも、「テロワール」はふくまれていない。


それならば、と、辞書的定義を求めて、オクスフォード・ディクショナリーの「terroir」にあたってみると、次の2つの語義が与えられていた(拙訳をつけた)。

①the complete natural environment in which a particular wine is produced, including factors such as the soil, topography, and the climate.

(個別のワインがつくられる自然環境全体のことで、そこにはその地の土壌や地形、気候などの要素がふくまれる。)


②the characteristic taste and flavour imparted to a wine by the environment in which it is produced.

(ワインをつくる環境がそのワインに分け与える特有の味わいや風味のこと。)

なるほど……。この辞書的定義だけを参照してみても、「テロワール」という語が内包する概念がひと筋縄でないことがわかる。


ワイン専門家の通説にしたがえば、「テロワール」なる概念は、その地(テラまたはテール)の気候や土壌はもちろん、そこに吹く風の向きやその強さだったり降雨量の多寡や降る雨の強弱や近くに川や湖や海などの水源のありやなしやであったり植物相のありようであったり、さらにはヴィンヤードの高度、それが山岳にあるのか丘陵にあるのか、また、斜面の角度や方角、そして日照や気温の実態にいたるまでのことごとくが、そこに包含されるべきものとしてあるのであるらしい。くわえて、オクスフォード辞典の定義の②にあるように、ワインの個性を表現するさいにもそれはつかわれる。便利といえば便利なことばであるけれど、便利すぎるだけに、不便といえば不便でもある。


いずれにせよ、かくのごとき所以(ゆえん)をもって、「一ぱいの葡萄酒」が、その葡萄酒を生んだ「テロワールの表現」である、としばしばいわれるわけである。


たとえば、あるワインのミネラル分が豊富であれば、これぞテロワールゆえ、といわれるし、別の、甘やかでなめらかな口当たりが前面に出ているワインも、さらには爽快な酸味の際立つワインも、あるいは力強くたくましい骨格をそなえるとされるワインも、葡萄の種類はさることながら、なによりテロワールがモノをいっているといわれたりするように、それぞれの個性がもっぱらテロワールに還元されがちで、それはときに、ワイン・メーカーの個性や努力までもが等閑視されることにつながったりもする。

Illustrated by 坪本幸樹

なににせよ、「テロワール」は、ワインと自然環境の間柄のありかたからワインの特質をあきらかにしようとして練り上げられていった概念である、と、ひとまずは理解することにして、話を、日本の哲学者の和辻哲郎(1889−1960)が、1935(昭和10)年に公刊した高名な著書『風土 −人間学的考察−』の冒頭の一文に転換する(引用はすべて岩波文庫版による)。


和辻はいう。

「ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である」と。まるで「テロワール」の定義そのものではないか、と僕は、これを読んで、両者の相似におどろいた。


さらに、次のようにも述べられる。


「我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を『取り巻いて』いる」


「我々」もまた、葡萄とおなじである――。


「我々はさらに風土の現象を文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の表現のうちに見いだすことができる」


まさに――。そして、葡萄酒もまた、テロワールとしての「風土」の現象であることは、すでに見た通りだ。文芸、美術、宗教などの活動のうちのひとつに葡萄酒をつくるという「活動」もあり、それを飲むという「風習」もあるのだとすれば、一ぱいの葡萄酒は、とりもなおさず「風土」の表現としての「人間生活の表現」の一環をなすものである。


とはいえ、これで話を終えては、いささか抽象度が高すぎるので、和辻のことばをもう少し引いて、かれのいわんとする「風土の現象」の具体例のひとつを示してみる。


「ギリシア半島—特に古い文化の舞台であるエーゲ海沿岸は、山脈の屏風によって西をふさがれ、細長いクレータの島によって南の海から遮断された特殊の区域である。だから乾燥の度はイタリアよりもはるかにはなはだしい。雨量はイタリアの半分だと言われる。空気はイタリアよりも一層澄み透っている。雨期である冬の日にさえも、『澄みわたる碧空、輝き透る天日』がギリシアの自然の特徴である。ギリシアがしばしば『真昼』という言葉によって特性づけられ、また『ギリシアには陰がない』と言われるのは、空気が湿気を含まないことから来るこの明るさのゆえである」


なんだかギリシアに行きたくなってきた。


「従ってギリシアでは、雲の色、山の色、土の色、岩の色というごときものが実に鮮明に、調子を鈍らせられることなく、くっきりと現われてくる。潮の色は実に『澄徹』であり、野の緑も全く濁り気がない。明朗を特徴とするイタリアもこの点でははるかにギリシアに及ばない」


ますます、ギリシアに行きたくなる。


「あくまでも明るい、見えぬもののない、そうして規則正しいギリシアの自然」は「すべてを露出している、そうしてそこには一定の秩序がある、この考えは自然哲学者を支配していたとともにまた芸術家を動かす力でもあった。ギリシア彫刻の最も著しい特徴は、その表面が、内に何物かを包める面としてでなく、内なるものをことごとく露わにせるものとして、作られていることである」。


すべてを見せている「自然」、隠し事をしていない「自然」を享受しているギリシア人は、それゆえ裸体で競技し、「裸体像を彫刻の様式として作り出した」のであったか……。してみると、ギリシアのワインは、どこかギリシアの裸体彫刻のようであるのだろうか、と想像をたくましくする……。肉体を、その感覚を歓ぶ、がごときワイン……。それは、どんなワインであるのか、と。


ワインには女王と呼ばれるものも王様と呼ばれるものも、またたんに産地の呼称以外のレッテルをもたないものもある。しかし、そのどれもが、テロワールの表現であり風土の表現であることにおいて変わりはない。人間も同様だ。女王と呼ばれるものも王様と呼ばれるものもいれば、たんにみずからの名前以外に自己を形容すべき地位のない人間もいる。それぞれは風土などの「取り巻いている」ものなどによって異なる表現を得た特別・個別の人間である。けれど、いずれもが、人間であることにおいて変わりはない。一ぱいの葡萄酒がそれぞれにちがいながら葡萄酒としておなじであるように、ひとりの人間もまたそれぞれにちがいながら人間としておなじだ。そして、そのちがいの背景に「テロワール」があり「風土」がある。


そういえば――。


1982年に日本で公開されたとき、映画『E.T.』の「The Extra-Terrestrial」の英語部分は、「地球外生命体」ではなく「宇宙からの愛らしい訪問者」と意訳されていた。この映画は、エリオット少年が、「エクストラ・テレストリアル」(地球の外)を「テロワール」とした「イーティー」と、魂の美しい交流を果たす物語であった。ならば、地球内のどんな風土=テロワールが生んだワインであろうと、そしてワインのみならず人間であろうと、僕たちは魂の交流を果たせないはずがない。エリオット少年の心をもってするならば……。


今夜はギリシアの、イタリアよりもはるかに「明朗な」風土が生んだワインを開けて、新年を祝ってみることにしようか。地上のすべての戦争の終結を願いつつ、一ぱいの葡萄酒に、魂の交流を託して。

連載タイトルについて

永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。


それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。


「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。


そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。


「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。


このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)

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