ワインを愛好する編集者・ジャーナリストの鈴木正文さんが、「一ぱいの葡萄酒」をテーマに寄せるエッセイ。第2回目は、いまなにかと話題のドラマおよび漫画の『神の雫』にちなんで、「最後の晩餐」の葡萄酒を取り上げます。
※連載タイトルに込めた鈴木正文さんの想いはコラム下部にて掲載しております。
著:鈴木 正文
編集者・ジャーナリスト。1949年東京生まれ。慶応大学文学部中退。CM製作会社進行助手、海運造船業界紙記者などを経て二玄社に入社後、雑誌編集に携わり、『NAVI』(二玄社)、『ENGINE』(新潮社)、『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)各誌の編集長を務めたのち2022年に独立した。著書に『◯✕まるくす』(二玄社)、『走れ、ヨコグルマ』(小学館文庫)、『スズキさんの生活と意見』(新潮社)など。坂本龍一の2冊の自伝である『音楽は自由にする』(新潮社)および『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(同)では、聞き手を務めた。
「最後の晩餐」で、イエス・キリストがいったことばは、マルコ、ルカやマタイ、ヨハネの各福音書に遺されている。この晩餐は、イエスがゴルゴダの丘で十字架にはりつけにされて処刑される前日に、12人の弟子らとともにとった夕食のことであるけれど、その食事は「過越(すぎこし)の祭の正餐」として準備されたものであった。
「過越」は英語では「passover」といい、エジプト人(ファラオ王)の奴隷であったイスラエル人が、モーセに率いられてエジプトを脱出するとき、神の教えにしたがって屠った子羊の血で戸口に印を付け、死の天使をして、その印のある家を素通り(passover)せしめたいっぽうで、それ以外の家では、つまりは、戸口に羊の血塗り印のないエジプト人の家では、ファラオのそれもふくめて、生まれてくる第一子の命が奪われ、ファラオはついにイスラエル人の解放を認めた――、という旧約聖書の「出エジプト記」の記述に由来する。ヘブライ=イスラエル人の「エクソダス」の成功にまつわるこの故事にちなんで、毎年4月にユダヤ教徒は「過越の祭」をおこない、その初日に「過越の祭の正餐」に臨むことが儀式化した、という。
ところで、この祝宴では酵母で発酵させない「種なしパン」を食し、子羊を焼いて食べる。なぜ種(=酵母)なしのパンなのかといえば、モーセに率いられてエジプトを脱出したさい、酵母によりパンが膨らむのを待つだけの余裕がなかったことの記憶を呼び戻すためといわれている。また、子羊を食べるのは、犠牲獣となった子羊がイスラエル人の罪を贖(あがな)ったことにちなむ。そして、正餐開始の合図となる赤ワインも必須なのは、戸口に塗られた血によって死の天使の「過ぎ越し」がかなったからで、それはいわば、犠牲獣の血の代理表象であるのだ。
と、ひと通り、事前の知識を確認したうえで、「最後の晩餐」にかんしての記述が詳しい『マルコによる福音書』の「14」にしたがって、この「晩餐」の模様をおさらいすると、次のような次第である(引用は「新共同訳」)。
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
晩餐会のはじまりに、イエスはまず、おどろくべき強烈なパンチを放つ。この裏切り者が、じつはユダであることを僕たちは知っているけれど、12人の弟子たちのうちユダ以外はそのことを知らない。そして、イエスはその場でそれがだれであるかを名指すことはしなかった。とはいえ、もちろん神の子である以上、ユダが裏切ることを、イエスはわかっていたはずだ。わかっていたのに、あえて、十字架にはりつけられるようにことを進めたのはどうしてか――。それについては、あとで触れる。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
皆が回し飲んだのは、意味としては、イエスが翌日に、「多くの人のために」流す「わたしの血」であった。エジプト脱出のさいの犠牲獣となった子羊のように、みずからが血を流して犠牲死を果たし、それによって人々を贖うことを、イエスは予言したのである。
そして、イエスの犠牲死を導いたのは「裏切り者」のユダ(=イスラエル人)であり、イエスが磔刑によって流した血なくしては、すべての民の罪は贖われなかった (ということである)。だから、ユダの裏切りは必要だった。晩餐の席でユダを名指さなかったのは、この贖いを実現するためであり、ユダが裏切りを実行したのは、金銭を得るためであるとされているけれど、そのじつ、贖いのために処刑を甘んじて受けようとするイエスの真意をかれだけが理解していたからだ、といえぬこともない。
赤いワインは、かくして、イエスが流した贖いの血と同値される代理表象となった。僕は(多くの日本人とおなじく)熱心なキリスト教信者ではないし、キリスト教をふくむなんらかの宗教に帰依しているとはおもっていないけれど、「最後の晩餐」とイエスの死(と復活)の物語には、感情を揺りうごかされる。なぜなら、僕たちは、そもそも罪深き存在であるからだ。獣肉を食べ、鳥や魚介を食べ、植物を食べ、つまりは、人間以外の生きとし生けるものを見境なく「殺す」ことによって、みずからの命をながらえる生き物であるからだ。人間は、罪深い。その深い罪をイエスは犠牲死によって贖った。
であるとするなら、僕たちが(罪を意識せずに)かぐわしくも麗しき「一ぱいの葡萄酒」を、きょうも愛でることができるのは、神の恵みといわずしてなんといおう。それこそが、「神の雫」でなくて、なんであろう。
この記事の叙述は、その多くを、『パンとワインを巡り神話が巡る』(白井隆一郎著 中公新書)によっています。謝して記します。
連載タイトルについて
永井荷風がほぼ1年のフランス遊学を終えて、日本に帰る船にロンドンから乗ったのは1908(明治41)年6月のことであった。『ふらんす物語』として翌年に公刊されるはずが風俗を乱すとして発禁処分となり、後年(1915年)、日の目を見たこの本のなかに、「1908年6月船中にて」とのただし書きのある「巴里のわかれ」というタイトルの小文がある。
それは、日本に帰るべく、パリから列車に乗り、ディエップ港で船に乗り換えて英仏海峡を渡ってロンドンに投宿した荷風が、ヨーロッパで過ごす最後の晩の食事をとりに外出し、辻馬車の御者にたずねて、「フランス人の居留地」があるというオックスフォード・ストリートの、とある「汚い安料理屋」に入ったときの回想をつづったものである。そこは「懐しい三色の国旗がユニオンジャックの旗と差し違いに出してある料理屋」であった。荷風は書く。
「……入口に近く、よごれた白布(ナップ)を敷いたテーブルには三人の職人風の男、中央(まんなか)には商人らしい男が四五人、稍(すこし)離れた片隅には醜からぬ女が一人坐っていた。その服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども一目見て特徴の著しい『巴里女』(パリジエーヌ)である。自分はさながら砂漠の中に一帯の青林(せいりん)を見出したような気がした」と。
そうして、その「パリジエーヌ」が、「汚れた壁に添うた汚れたテーブルの上に片肘をつき、物思わし気に時々は吐息をもつくようで、手にした肉叉(にくさし)に料理をさしながら食べようともせず、蝿の糞で汚れた天井を現(うつつ)に仰いでいる様子は、どうしても異(ちが)った国から移植(うつしう)えた草花の色もあせやつれた風情である」として、荷風は、その「もの淋しく物哀れ」な様子に「漂白(さすらい)の悲しみを覚え」、こう述べる。
「あの女はどうしてあの美しいフランスを去ったのであろう。若しこれが巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋にしても、アブニューを蔽うマロニエの若葉の蔭、道端のテラスで、紫色に暮れて行く街の人通を眺め、何処からともなく聞えて来るヴィヨロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔おうものを……と今は他人(ひと)の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思いはじめる」と。
このとき、荷風の想念をよぎった「一ぱいの葡萄酒」への万感のおもいは、また、歓びはいうまでもなきこととして、「漂白の悲しみ」をも縁なしとしない僕(たち)のおもいでもある。葡萄酒は飲まれるべきものばかりではない。それは(ぜひとも)語られるべきものでもある。そして、葡萄酒をめぐる語りは、願わくば、「一ぱいの葡萄酒」の美味を増すものであってほしい。そんなおもいをこめて、この連載のタイトルを「一ぱいの葡萄酒」とすることにした。(鈴木正文)