波乱万丈のカリフォルニアのワイン史

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公開日 : 2021.5.12
更新日 : 2022.5.23
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カリフォルニアには、「神に祝福されたワインの地」のイメージがありますね。

毎年が「偉大なヴィンテージ」ですし、ブドウ栽培に理想の気候、土壌、地形が見事に揃っていますし、大都市サンフランシスコに隣接しているので、お金持ちのワイン愛好家がたくさんいて、資本も潤沢にあります。

高品質で高価なワインを造る有名ワイナリーが多いし、ワイン愛好家の評価も非常に高く、世界中のワイン生産者がカリフォルニアを羨む気持ちがよく分かります。

カリフォルニアは、「皇帝陛下の長男」として生まれ、贅沢な環境で育った王子様に見えますが、実は、貧乏な家庭に育った働き者の苦労人です。今の栄光を掴むまで、何ダースもの災難や不幸をくぐり抜けてきました。

今回、そんなカリフォルニアの波乱万丈のワイン史を紹介します。合わせて、カリフォルニアの変人、奇人、偉人ワイン生産者も取り上げます。

目次

カリフォルニアのワイン史

アメリカのワイン造りのはじまり

17世紀

アメリカのワイン造りは、1600年代、東海岸で始まりました。なぜ、東海岸か?

当時、イギリスが東海岸を植民地化していました。イギリス人はワインが大好き。

早速、東海岸に自生する土着ブドウを使い、ワインを造ったのですが、結果は、全て大失敗。ヨーロッパの人々は、アメリカの野生ブドウは、香りが悪く嫌な味がしたため、フォックス・グレープと呼びました。

アメリカの野生ブドウのワインは酸っぱく、すぐに劣化するので、土着ブドウでワインを造るのは止めましたが、ワイン造りは止まりません。

ヨーロッパで良いワインができるのだから、アメリカの肥沃な土壌では、もっと良いものができると信じ、ヨーロッパからブドウの苗木を輸入しました。でも、ヨーロッパ種は、アメリカ東部で育ちませんでした。

2年は育つのですが、すぐにカビがついたり、ウドンコ病にかかって枯れてしまったのです。ブドウの病害対策が進んでいなかった頃なので、仕方がありません。

カリフォルニアでのワイン造り

1826年

ヨーロッパ種のブドウは、試行錯誤を繰り返したのですが、アメリカの東部、中西部では育ちませんでした。でも、西岸海洋性気候のカリフォルニアでは順調に育つことが分かりました。

キリスト教の儀式では、パンと赤ワインを使うため、教会がカリフォルニアでワインを造ります。

東海岸のマサチューセッツ出身のジョセフ・チャップマンは1826年、カリフォルニアで最初の商業ベースのワイナリーを開きました(ロサンゼルスに4000本のブドウを植樹)。

フランス人のジャン・ルイ・ヴィニェは、2番目のワイナリーを立ち上げ、フランスのブドウを植えました。ヴィニェのワインは質が高いと評判になります。

日本では、葛飾北斎や滝沢馬琴が活躍していた頃です。

1848年

カリフォルニアでゴールドラッシュが勃発。これが追い風となって、1846年当時、人口200人の寒村だったサンフランシスコは、6年後の1852年には36,000人の大都市になりました。

人口が増えると、道路、鉄道、学校、住居ができ、富裕層が増えます。いつの時代も富裕層はワインが大好き。カリフォルニアのワインの上得意客になりました。

ゴールドラッシュの5年後の1853年、日本ではペリーが4隻の蒸気船を引き連れて浦賀にやって来ます。

相次ぐ天災

1873年

好景気に沸くカリフォルニアのワイン業界でしたが、良いことばかりではありません。恐怖の害虫、フィロキセラがソノマで発見され、ワイン生産者はパニックになります。

続いて、強烈な霜害が襲い、ブドウ畑が壊滅状態に。日本でも明治になりたての不安定な時代で、4年後の1877年には、西郷隆盛の西南戦争が起こります。

1893年

フィロキセラが見つかった1873年からちょうど100年間、カリフォルニアは10年、20年おきに天災や人災に巻き込まれる受難の時代に突入します。

フィロキセラと霜害の対策としてブドウ樹を植え替えてなんとか立ち直り、ワイン産業が正常に戻った直後、世界恐慌が勃発。サンフランシスコだけで数千の会社が倒産しました。多数のワイナリーが廃業し、金持ちもワインを飲む余裕がなくなります。

日本では、翌年の1894年に日清戦争が始まる波乱の時代でした。

1906年

災難の連鎖は止まりません。4月18日、サンフランシスコで大震災が発生します。

サンフランシスコの下を走る悪名高いサン・アンドレアス断層が震源地となったマグニチュード7.8の直下型大震災でした。地震と火事で都市部が壊滅し、西海岸の経済が大混乱します。ナパだけでも1億5千万本以上のワインのボトルが割れました。

1989年にも、サン・アンドレアス断層が震源地となった大地震が起きています。

サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで、プロ野球の全米No.1を決めるワールド・シリーズの第1戦(サンフランシスコ・ジャイアンツ対オークランド・アスレチックスのいわゆる「地下鉄対決」)の始球式の直前でした。日本でも試合のテレビ中継をしていたので、ご覧になった方は多いと思います。

カリフォルニアは、気候が理想的である代わりに、地震と山火事でいつも苦しめられています。

サンフランシスコで最初の地震があった頃、日本では、1904年に始まった日露戦争が1年前の1905年に終わった時期です。

禁酒法の制定

1920年

カリフォルニアのワイン史で最悪の災難は天災ではなく人災でした。アメリカ最大の悪法、禁酒法が施行されたのです。

カリフォルニアのワイナリーの中には、キリスト教の儀式で使う赤ワインや、医療用ワインを造って、細々と生き延びたところもありましたが、80%が閉鎖しました。高度な技術と経験を持った醸造技術者も、株の仲買人やミシンのセールスマンに商売替えして散逸。

カリフォルニアのワイン業界は壊滅的な状態になります。

実は、禁酒法は「ザル法」で自家醸造のワインを飲むのは合法でした。家庭でのワイン造りが盛んになり、皮肉なことに禁酒法前に比べワインの消費量は倍増します。

ワイナリーでは、カベルネ・ソーヴィニヨンやシャルドネのような高級ブドウを引き抜き、家庭醸造用の頑丈なアリカンテ・ブーシュのようなブドウを植え、東海岸のニューヨークやボストンへも貨物列車で出荷しました。

素人が台所で造った超級不味ワインは、アメリカ人のワインの味覚も破壊します。半甘口白ワインを飲んでワインにハマり、辛口白を経て赤ワインを飲み始めていた当時のアメリカのワイン文化は、一挙に振り出しへ戻りました。

日本も不安定な時代で、2年前の1918年に米騒動が勃発し、3年後の1923年には関東大震災が起きます。

1933年

やっと禁酒法が終わります。カリフォルニアのワイン産業はゼロからではなく、マイナスからのスタートになりました。

ブドウ樹の植え付けや、醸造技師の求人など、基本的なところから手をつけねばなりませんでした。

禁酒法の廃止によってワインが爆発的に売れると読んでワイナリーが急増しましたが、一度落ち込んだ消費者のワイン熱は簡単には戻らず、新興ワイナリーのほとんどが倒産します。

禁酒法廃止の翌年の1934年、カリフォルニアには804のワイナリーが操業していました。禁酒法前より100増えたのですが、10年後には465に減ります。

それでも、真面目な生産者は歯を食いしばって頑張りました。

品質の向上

禁酒法が終わった頃、カリフォルニアのワインは世界的には完全に無名でした。アメリカ人でさえ、カリフォルニアでワインを造っていることを知りません。

でも、禁酒法の前のように高級ワインを造りたいと熱く燃える醸造家は、寝ている時だけでなく起きている時も夢を見ていました。ワイナリー同士が助け合い、カリフォルニア大学デイヴィス校(UCデイヴィス)が醸造や栽培技術をリードしたのがこの頃です。

UCデイヴィスで最も重要な研究は、アルバート・J・ウインクラー教授とメイナード・アメリン教授が1930年代に始めたもので、カリフォルニアで最適のブドウ品種を解明する研究です。二人は、昼食前に20種類、昼食後も20種類のワインを毎日試飲した結果、カリフォルニアを五つの気候帯にグループ分けし、各気候帯での最適のブドウ品種を推奨しました。

例えば、ナパ・バレーのヨンツヴィルは、年間の温度変化パターンがボルドーに似ているため、カベルネ・ソーヴィニヨンが適し、ソノマのルシアンリバー・バレーは、ブルゴーニュのコート・ドール地区に似て冷涼な気候なので、シャルドネやピノ・ノワールを推奨しています。

1940年代後半、カリフォルニアのワイン生産者は、ヨーロッパのワインと比較して飲むと、自分たちのワインが劣っていると感じたのですが、その原因が分かりません。そこで、ウインクラーとアメリンをはじめとするUCデイヴィスの論文を熱心に読み、研究者のアドバイスにも忠実に従いました。

これまで、行き当たりばったりにブドウを植えていた農家も、古いブドウを引き抜き、ウインクラーとアメリンのアドバイスに従って新しいブドウを植えます。また、ワイン生産者は、UCデイヴィスのセミナーや短期講座を受講しました。マロラクティック発酵を制御する技術を世界で初めて確立したのもUCデイヴィスです。

こうして、カリフォルニア全体で、禁酒法時代の低品質ブドウが、少しずつ高貴種に替わり、ワイン造りの技術もゆっくりと、でも確実に上がったのですが、苦難の日々はまだまだ続きます。

カリフォルニアワインの苦悩

1950年代~1960年代

禁酒法廃止から30年間、アルマデン、ボーリュー、ベリンジャー、クリスチャン・ブラザーズ、イングルヌック、クリュッグ、マティーニ、ポール・マッソン、ウェンテのような高級ワイン志向の小規模ワイナリーは生き残りをかけて必死でした。

アメリカ人のワインの味覚が振り出しに戻ったため、どのワイナリーも初心者用のワインである甘口ワインやジャグワイン(※)の販売に頼らざるを得ません。

例えば、ベリンジャーでは、総生産の80%が甘口ワインでした。イングルヌック以外、ジャグワインを造って細々と生き延びました。

ジャグワインや甘口ワインを生産する一方、僅かながら高級ワインも造り続けたのですが、市場はありません。当時、ビール文化圏のアメリカで高品質ワインを飲むアメリカ人はほとんどおらず、いたとしても、フランスワインに走ったからです。

1950年代、高級ワインの生産量は、カリフォルニアワインの総売り上げの1%に過ぎませんでした。

禁酒法が廃止になっても、カリフォルニアワインの苦難は続いています。日本では東京タワーができたり、東京オリンピックで日本中が沸いた頃です。

※ガラス瓶や水差しに瓶詰めされた安価なテーブルワインのこと

1972年

ワインが大好きのイギリス人、スティーヴン・スパリュアがパリで人類初のワイン学校、「アカデミー・デュ・ヴァン」を立ち上げます。スパリュアは、ワイン学校の隣でワイン店も経営していました。

日本では、札幌の冬季オリンピックのジャンプで日本勢が金銀銅メダルを独占し、中国から初めてパンダが来日した頃です。

パリスの審判

1976年

アメリカ独立200周年イベントとして、5月24日、スパリュアがパリのインターコンチネンタル・ホテルで試飲会を企画します。これが、「パリスの審判」としてワイン史上、最も有名な出来事です(「パリスの審判」の詳細は「ワイン史を変えた!「パリスの審判」とは?」を参照してください)。

スパリュアは、当時、無名だったカリフォルニアのワインの紹介も兼ね、自分のワイン学校と店の宣伝として、赤白ワインの両方で、カリフォルニアと、フランスの超高級ワインを目隠し試飲で対決させました。

結果は、無名のカリフォルニアワインがフランスのエリート軍団を撃破する大番狂わせ。大阪桐蔭高校野球部が、阪神タイガースの1軍の精鋭を相手に、ノーヒットノーランで勝ったようなものです。

100年間も災難が続いたカリフォルニアワインに、初めて訪れた晴れがましい栄光でした。

「カリフォルニア、フランスの一流ワインを撃破」のニュースは、フランス以外の世界各国へ瞬時に配信され、カリフォルニアワインの評価が急上昇します。

日本では、田中角栄総理がロッキード事件で逮捕されたり、「およげ!たいやきくん」が大ヒットした頃、カリフォルニアワインに史上初の栄光が訪れたのです。

1978年

「パリスの審判」の2年後、ボルドーの超名門シャトー、ムートン・ロスチャイルドのフィリップ男爵と、ロバート・モンダヴィが、共同でナパのオークヴィルにオーパス・ワンを立ち上げました。「パリスの審判」でカリフォルニアの実力を認め、男爵側からモンダヴィに業務提携を持ちかけました。

フランスの超一流シャトーが高品質を認めたことになり、カリフォルニアワインの評価は世界的に盤石になりました。オーパス・ワンは、アメリカでは、世界で最も有名なワインとして小学生でも知っているほど高い知名度を獲得します。

日本では、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」、ピンク・レディーの「UFO」が流行った頃です。

1986年

ニューヨークで「パリスの審判のリターン・マッチ」を開きました。

「パリスの審判」でフランスが敗れたのは、「カリフォルニアワインは果実味が多いので、若くても飲めるが、フランス物は熟成させないと真価が出ない」とフランスが言い訳し、それではと10年後の1986年、同じワインが対決。以降、「パリスの審判」は遺恨試合となります。

なお、白ワインは熟成のピークを過ぎているとの理由で、赤ワインだけ前回と同じ年の同じ銘柄を試飲しました。

1976年の「パリスの審判」の時のフランス人審査員も招待しましたが、当然、国辱的な試飲会を拒否したので、今回はアメリカ人のワインの専門家が判定します。この対決でも、カリフォルニアが大勝利しました(1位はクロ・デュ・ヴァル1972)。

日本では、石井明美の「CHA-CHA-CHA」や、中森明菜の「DESIRE」が流行った頃です。

2006年

「パリスの審判」の遺恨試合はまだ続きます。ピッタリ30年後の2006年5月24日、ナパとロンドンで1976年当時と全く同じ赤ワインが対決しました。ここでもカリフォルニア(リッジ・モンテ・べロ1971)が勝利します。美少女選手権で1位となり、ミスユニバースに選ばれ、さらに、熟女コンテストでも優勝したような快挙ですね。

日本では、総理大臣が小泉純一郎から安倍晋三へ替り、夏の甲子園大会では「ハンカチ王子」、斎藤佑樹投手の早稲田実業が優勝。流行語大賞が「イナバウアー」で、KAT-TUNの「Real Face」、レミオロメンの「粉雪」がヒットしました。

現在のカリフォルニア

カリフォルニアは、1976年の「パリの試飲会」では、ぽっと出の新人でしたが、45年経った今、世界のワイン愛好家が熱い視線を注ぐワイン王国になりました。

ワインの生産だけでなく、ワイナリー観光も盛んで、年間1500万人が訪れています。これは、ディズニーランドに次ぎ全米2位の集客人数です。

カリフォルニアのワイン産業は、キレイに二極化しています。1,700あるワイナリーのうち、25社で95%のワインを生産。残りの1,675社が、ごく微量ながらも個性タップリの超高級カルトワインを造るブティック・ワイナリーです。カリフォルニアワインの面白さの秘密がここにもあります。

アメリカン・ドリームの一つが「リタイヤした後、カリフォルニアでワインを造る」です。老後の資金は潤沢ではありませんので、広い土地は買えません。かくして、狭い畑で手間暇かけて高級ワインを造るブティック・ワイナリーが急増したのです。

農林水産の分野で大成功すると、環境保護団体が乗り込んでくるのが世界的なお約束。

カリフォルニアも、「ブドウ樹だけを植えるのは不自然」「カリフォルニア中をブドウ畑にするな」と叩かれました。強烈な個性を持つワイン生産者と、人間より虫や草の健康が気になる環境保護団体が正面から対決したのですが、大人の態度で双方の妥協点を探りました。

その結果、開発地域を制限したり、世界に先駆けて、有機栽培や化学合成物をなるべく使わないサステイナブル農法が盛んになりました。もっとも、リッジのポール・ドレイパーのように、「オレは、有機農法という言葉がなかった頃から、手で草をむしり、有機肥料を使ってたぞ」と威張っている生産者もたくさんいます。

カリフォルニアを見ると、ワインが分かるだけでなく、世界のワイン業界の未来も見えてきますね。

カリフォルニアの偉人、変人、奇人ワイン生産者列伝

アメリカ人は、「自由」「平等」以上に、「他人と同じでないこと」を重視します。

ワイン以上に、ワイン生産者はめちゃくちゃ個性的です。これほど多様な醸造家がいて、いろんなワインがある土地は、カリフォルニアだけでしょう。カリフォルニアワインを探す楽しみは尽きません。

「パリスの審判」に関わった人たちを中心に、カリフォルニアのいろいろな生産者を紹介します。

マイク・ガーギッジ(1923年4月1日- )

カリフォルニアのワイン業界で1番の「苦労人」はマイク・ガーギッジです。

当時、チトー大統領の下、ガチガチの共産圏だったユーゴスラビア(現クロアチア)のザグレヴ大学の醸造学科を卒業直前、西側諸国でワインを造りたいと思い、ドイツでの研修のまま帰国せず、以降、難民となりました。靴の二重底に32ドルを隠し、苦労と貧乏の末、カリフォルニアへ渡り、初めてワイナリーで雇われたのが35歳です。

ワイン生産者としては、10年以上も遅いスタートでしたが、ここから驚異的な努力と忍耐でワインを造ります。

スーヴェラン・セラーズ、モンダヴィを経て雇われたシャトー・モンテレーナでシャルドネの1973年を造り、ついに、「パリ試飲会」の白ワイン部門で1位になります。この「カリフォルニア版プロジェクトX」は、涙なしには聞けません。

ウォレン・ウィニアルスキー(1928年- )

ウァレン・ウィニアルスキーには「哲人」という言葉が似合います。

シカゴ大学で哲学を教えていたのですが、ワイン造りへの情熱が消えず、全てを投げ打ってカリフォルニアへ行きました。

「ウィニアルスキー」はポーランド語で「ワイン屋の息子」を意味するので、必然的な転身かも知れません。「大学教授の賭け」は苦労の末、大成功。ウィニアルスキーのスタグスリープ1973年は「パリスの審判」の赤ワイン部門で1位になりました。

ハイジ・バレット(1958年- )

「才色兼備」ならハイジ・バレットで決まり。

階級社会のフランスで、女性が醸造責任者になることは非常に困難ですが、自由の国アメリカでは、女性が大活躍しています。「カリフォルニアの女性醸造家四天王」のトップがバレット女史です。

スクリーミング・イーグルやグレース・ファミリーなど、帝王ロバート・パーカーが100点満点を連発したカルトワインを造りました。女性が歌舞伎で主役を張るぐらいの快挙ですね。

なお、ハイジ・バレットのご主人は「パリスの審判」の白ワイン部門で1位になったシャトー・モンテレーナのオーナー、ボー・バレットです。ご夫妻それぞれで、世界レベルのワインを造っています。

ロバート・モンダヴィ(1913年6月18日-2008年5月16日)

「豪傑」「太っ腹」「ワインの父」でキーワード検索すると、ロバート・モンダヴィにヒットします。

「パリスの審判」の赤ワイン部門の1位、ワァレン・ウィニアルスキーや、同白ワインの1位のマイク・ガーギッジをはじめ、モンダヴィの世話にならなかった醸造家はいません。

モンダヴィは、ワインを造っただけではなく、自動車産業のヘンリー・フォード、コンピュータ産業のスティーヴン・ジョブズ同様、「ワイン産業」を造ったのです。

気前がよく、豪放磊落で、万人に愛されたモンダヴィですが、弟との仲が最悪で、家族経営のワイナリーから追放され、自分のワイナリーを立ち上げました。

自分のワイナリーを持った後、今度は息子との折合いが良くありませんでした。芥川賞作家の開高健のように、豪快ながら家族愛に恵まれなかったモンダヴィ。少しほろ苦い人間ドラマですね。

ポール・ドレイパー(1936年3月10日- )

「波瀾万丈」クンと言いたくなるのが、リッジのポール・ドレイパーです。

名門、スタンフォード大学の哲学科を卒業後、第2次世界大戦では陸軍で諜報活動に係わりイタリアへ駐留。イタリア中をバイクで走り回ったあと、パリのソルボンヌ大学へ通います。

その後、ボルドーでワイン造りを学び、チリへ渡ってワインを造り成功するのですが、政情不安のためワイナリーをたたみ、カリフォルニアへ戻ります。以後、独学で世界レベルのワインを造り、1976年の最初の「パリスの審判」では5位だったモンテ・ベロ1971は、2006年の「30周年記念のパリスの審判@ナパとロンドン」では1位に輝きました。

おわりに

今でこそ、カリフォルニアのワインは、世界中のワイン愛好家から熱い注目を浴び、新世界ワインのリーダーとして先頭を走っていますが、実は、その前の100年間は苦難の連続でした。

いろいろな天災や人災を正面から受け、またアメリカ国内に高級ワインの需要がほとんどなかった受難の日々、ワイナリー同士が助け合い、地元のUCデイヴィスもしっかりワイン生産者をサポートし、次々に降りかかる災難をじっと耐えました。

無名のカリフォルニアワインに史上初めてスポットライトが当たったのが1976年の「パリスの審判」です。フランスのエリートワイン軍団を撃破して世界の表舞台に登場し、さらに、1978年には、ムートンのフィリップ男爵がモンダヴィに事業提携を申し入れてオーパス・ワンが立ち上がるなど、カリフォルニアは栄光の道を歩みます。

陽気で明るいカリフォルニアワインの背後には、苦労と努力の日々があります。カリフォルニアワインを飲む時、その高品質を愛でながら、苦難の数々や、高級ワインに命を懸けた先人の情熱に少し思いを巡らせていただければ嬉しく思います。

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