鉄の宰相チャーチルが溺愛したシャンパーニュ「ポル・ロジェ」

世界の有名人はシャンパーニュが大好き。有名人の中には、特定のシャンパーニュを愛飲した人も少なくありません。

例えば、ナポレオン皇帝はモエ・エ・シャンドン、グレース・ケリーはテタンジェ、ジェームス・ボンドはボランジェ、レオナール藤田はG.H.マム、マドンナはドゥーツを。

そして、巡洋艦みたいな英国の宰相ウインストン・チャーチルは、今回取り上げるポル・ロジェを溺愛しました。

チャーチルはポル・ロジェを愛飲しただけでなく、渾身の力でバックアップ。チャーチルの「鉄の宰相」のイメージがポル・ロジェに染み込み、世界中のシャンパーニュ愛好家に「ポル・ロジェは重厚長大なシャンパーニュ」のイメージが浸透しました。

類まれな色香でチャーチル首相を「ポル・ロジェの最強のパトロン」に仕立てたのが、同メゾンのオデット夫人。

パリ最高の美女オデット・ポル=ロジェ夫人と、英国の鉄の宰相チャーチルの二人を軸に、ポル・ロジェの歴史を見ていきます。

超人的マルチ・タレント、チャーチル首相

第二次世界大戦では、英国首相として豪腕を振るったチャーチル。

政治家としてだけでなく、酒、競馬、著作、葉巻と「飲む、打つ、書く、吸う」の4分野で大活躍。全く違う分野で輝かしい才能を発揮し、名を残しました。以下、チャーチルの逸話を一部をご紹介します。

ノーベル賞受賞

政治家が受賞するノーベル賞といえば、「ノーベル平和賞」ですね。

この半世紀、政治家のノーベル賞受賞者を見ると、1973年にアメリカの大統領補佐官、ヘンリー・キッシンジャーと、北ベトナムの副書記、レ・ドゥク・トがベトナムの平和に貢献したと共同受賞(ただし、レ・ドゥク・トは、「ベトナムは、まだ平和ではない」と受賞を辞退)、佐藤栄作総理が非核三原則で1974年に受賞(私を含め、日本中がビックリしましたね)。 1994年には、パレスチナ和平合意で、イスラエル側のイツハク・ラビン首相とシモン・ペレス外相、パレスチナ解放機構側のヤーセル・アラファト議長が共同受賞。2000年は、韓国の金大中大統領、2002年には、アメリカのジミー・カーター大統領、最近では、2009年にアメリカのバラク・オバマ大統領の受賞が、記憶に新しいところです。これらは全てノーベル平和賞。

なので、チャーチルがノーベル賞を受賞したと聞くと「平和賞」と自動的に思いますが、実は「ノーベル文学賞」。1953年に『回顧録第二次世界大戦』の著作で受賞しました。

チャーチルは、政治的な能力と同様、文才にも非常に恵まれていて、生涯、43冊の本を書き、1,000編以上のコラムを新聞や雑誌に寄稿しました。ジャンルは違いますが、作品の多さでは、10年以上毎回ノーベル文学賞の候補になる村上春樹に匹敵します。

なお、1953年度のノーベル文学賞の選考で、チャーチルの対抗馬として有力視されたのが、シャトー・マルゴーの大ファンのアーネスト・ヘミングウェイでした(*1)。ヘミングウェイは翌1954年に受賞しますが、同年、アフリカで2日連続の飛行機墜落事故に遭遇して重傷を負い、授賞式には出られませんでした。

*1:ヘミングウェイはシャトー・マルゴーに宿泊したこともあります。マルゴー好きが高じて、孫娘にMargaux(英語読みでマーゴ)と名付けました。これが、『リップ・スティック』や『黄昏のブルックリン・ブリッジ』に主演した映画俳優、マーゴ・ヘミングウェイです(妹が、同じく女優のマリエル・ヘミングウェイ)。マーゴは、抗不安剤の過剰摂取で1996年7月2日に死去(多分、自死)。祖父のアーネスト・ヘミングウェイが猟銃自殺した35年後の同日でした。

シガー(葉巻)を愛煙

チャーチルの写真を見ると、必ず山高帽をかぶり、シガーをくわえていますね。シガーが大好きなチャーチルは、寝ている時以外はシガーを離しませんでした。

もちろん、テレビでの政見放送時も吸っており、視聴者は、葉巻の灰がいつ落ちるかとハラハラして画面に見入ったのですが、これはチャーチルの作戦。シガーの中に針金を仕込み、灰が落ちそうで落ちないようにし、視聴者の注意を引きつけたそうです。一筋縄ではいかないチャーチルらしいエピソードですね。

当時のイギリスでは、シガーは超高級嗜好品。とても高価でしたが、チャーチルは年間1,000万円もシガーにかけていたとか。愛好したのは、本場キューバ産のロメオ・イ・フリエタ(Romeo Y Julieta:ロミオとジュリエット)とのことです。

チャーチルが愛煙したロミオ・イ・フリエタ社のシガートレードマークは、バルコニーでジュリエットに会うロメオチャーチルも意外にロマンチスト

シガーを世界的に宣伝したチャーチル(*2)、その名はシガーにたくさん残っています。

まず、シガー界の「ラフィット・ロートシルト」といわれるダビドフ社は、同社の最高級版として、ウィンストン・チャーチルのシリーズを出しました。

ダビドフ社のウィンストン・チャーチル版のロブスト(13cm)バンドに、チャーチルの横顔あり

また、ワインボトルにレギュラー・サイズ、マグナム・サイズがあるように、シガーには「チャーチル・サイズ」があります。これは、長さが7インチ(178ミリ)前後で、太さ(リングゲージ)が47(1リングゲージは1/64インチで、0.397mm。47は18.65ミリ)と、太くて長い「巡洋艦サイズ」の一般名称です。普通に吸うと1時間以上、たっぷり持ちます。

ちなみに、シガーで最も標準的(ワインなら750ccのボトル)なのが「コロナ・サイズ(長さが150mmぐらい、太さが16mm程度)」で、ボールペンの長さ。初めてシガーを試す方にはおススメのサイズです。

*2:1961年、43歳の若さでアメリカ大統領になり、世界的人気になったJ.F.ケネディーもシガー愛好家として有名。愛煙したのがキューバ産のハーマン・アップマン。1962年、部下にワシントンDC中のシガー・ショップを回らせ、同シガーを1,100本買い占めた翌日、キューバの経済封鎖命令に署名したのは有名な話。

究極のマティーニ

カクテルで、最も種類が多いのがマティーニでしょう。1979年に出版の『ザ・パーフェクト・マティーニ・ブック』には、268種類のレシピが載っています。

マティーニの標準的なレシピは、ドライ・ジン45ccとベルモット5ccをスティアしますが(*3)、ベルモットが少なく辛口になるほど男らしくてカッコいいとされていて、辛口自慢が花盛り。

中でも有名なのが、ウィンストン・チャーチルのマティーニ。超辛口派だったチャーチルは「ジンを飲んでいる最中、執事に、左の耳元で『ベルモット』と囁かせた(右耳だと甘すぎるそう)」、「ベルモットの瓶を横目で見ながらジンを飲む(正面から見ると甘すぎるらしい)」などの逸話が伝わっています。

*3:普通にグラスに入れて、かき混ぜるのではなく、シェ―カーに氷を入れてシェイクするのが「ジェームス・ボンド・マティーニ」。007の映画での「Martini. Shaken, not stirred」の台詞が有名になり、世界中で注文する客が多数。バーテンダーは、「どうせ、違いなんて分かるまい」と、スティアして出したそうです。違いは、「シェイクすると氷が解けて、薄くなると同時によく冷える」。なので、「胃が疲れているので、シェイクしたマティーニを」と言えば、通っぽくなります。

ポル・ロジェの歴史

次はポル・ロジェ社の歴史を見ていきましょう。

ポル・ロジェ家には代々、いろいろな災難が襲います。災難を避け、安定的に操業するため、「チャーチルの傘」に入った印象があります。

初代:1849年~1899年

メゾンの初代当主がポル・ロジェです(「ポル」がファースト・ネームで、「ロジェ」がファミリー・ネームですが、二代目から、「ポル=ロジェ」がファミリー・ネームになります)。

ポルの父は公証人で、社会的な地位が非常に高かったのですが、当時、不治の病だった肺結核に罹患しました。これが最初の「災難」です。

息子のポルは、一家のために働かざるを得ず、アイ村に会社を構え、他社からシャンパーニュを仕入れて売り始めます。最初の1本を売ったのが1849年1月2日でした。ビジネスの才能があったポルは、自分の名前でシャンパーニュを売り始め、会社は急速に発展。1851年にはエペルネに会社を移転します。

それまでのシャンパーニュは甘口が中心でしたが、先見の明があったポルは、1855年にはブリュットを造りイギリスに輸出して大人気になります。

二代目:1900年~1918年

ポルの息子のモーリス・ロジェとジョルジュ・ロジェが、1900年からメゾンを引き継ぎます。

同年2月23日、同社最悪の大惨事が起きました。

同社のセラーはシャンパーニュ有数の広さを誇り、地下30mまでありましたが、このセラーと建物の一部が崩壊したのです。この陥没で500個の樽と150万本のボトルを失いました。

この事故で同社は倒産の危機となりましたが、モーリスとジョルジュの兄弟は力を合わせて克服します。

2018年、この崩落事故現場から1889年~1898年のボトルが26本発見され、ワイン業界を賑わす大ニュースになりました。

この兄弟二人の時代、家族の姓を「ロジェ」から「ポル=ロジェ」に改姓しました。

三代目:1919年~1945年

モーリスの息子(初代、ポルの孫)のジャック・ポル=ロジェが、三代目として跡を継ぎます。三代目の時代には「ロシア革命」と「アメリカの禁酒法」と大事件が二つも起きます。

ロシア革命(1917年)により、ニコライ2世が処刑されてロシアの帝政が崩壊。労働者を指揮したレーニンが「独裁者」になりました。ロシアの帝王や貴族はシャンパーニュが大好きな得意客だったので、ロシア革命により、贅沢品のシャンパーニュ産業は大打撃を受けます(実はレーニンは、貧しい大衆の味方と言いながら、ロシア皇帝アレクサンドル2世の特注品であるルイ・ロデレールのクリスタルをこっそり飲んでいたとか)。

これに「世界最大の悪法」と言われるアメリカの禁酒法(1920年-1933年)が追い打ちをかけます。禁酒とはいいながら、一家族あたり年間750リットル(通常ボトルの1,000本分)まで自家醸造が許されていたので、皮肉なことにワインの飲酒量は禁酒法前の2倍になりました(素人が造った「キッチン・ワイン」は、醸造の3ヵ月後には酢の匂いがしたそうです)。

ポル・ロジェは、イギリスに顧客が多く、ロシアやアメリカへの輸入依存が少なかったため、他のメゾンに比べると二つの事件の打撃は少なかったのですが、1929年に、経済的な危機に陥りました。また、第二次世界大戦中は、フランスがドイツに占領されて同社も第三者に支配されるなど、一気に「苦難」がやって来ます。

1933年、試練だらけの三代目当主、ジャック・ポル=ロジェと結婚したのが、フランス陸軍のジョルジュ・ワレス将軍の娘、オデットでした。

スタイル抜群で品があり、金髪に青い目のオデットは「パリで一番の美女」と言われ、大人気。グレース・ケリーに匹敵する美貌と気品ですね。このオデットが、災難に魅入られているポル・ロジェ社を救います。

三代目ジャックと結婚した美貌と気品のオデット夫人
(ポル・ロジェのウェブサイトより)

オデット夫人とチャーチル首相

オデット夫人とチャーチル首相(ポル・ロジェのウェブサイトより)

超絶美女のオデット夫人が、鉄の宰相チャーチルと運命的に出会い、ポル・ロジェの将来が劇的に好転していく模様を見ていきましょう。

出会い

チャーチルは、もともとポル・ロジェのシャンパーニュが好きで、初めて飲んだのが1908年、34歳のときでした。

ナポレオンの名言「勝ったときはシャンパーニュを飲む権利がある。負けた時は飲まねばならぬ」を盛んに引用したそうです。そんなチャーチルが、ポル・ロジェの「愛飲家」から「世界最強のパトロン」に大変身したのが1944年11月11日です。

同日は休戦記念日(Armistice Day)。第一次世界大戦が停戦となった日で、イギリスの祝日です。この日、チャーチルはパリの英国大使館の昼食会に出席。駐仏英国大使のアルフレッド・ダフ・クーパーにオデットを紹介され、一目でオデットの虜になります。「巡洋艦のような鉄の宰相」が牙を抜かれ、「遊園地のアヒル型ボート」に変わりました。

オデットにメロメロになったチャーチルは、その場でポル・ロジェを数百ケース注文します。この時、チャーチルはあと3週間で71歳、オデット夫人は結婚10年目の33歳でした。

後年、オデット夫人は、チャーチルとの最初の出会いについて回想。

「チャーチル首相は、私には神のような存在でした。思慮深く、礼儀正しく、マナーの美しい方で、私は魅了されました」との印象を述べたそうです。要は、「尊敬していますが恋愛対象ではありません。ポル・ロジェの発展のために、良識の範囲でお付き合いをします」ということ。オデット夫人の手のひらの上で、チャーチルが転がされていますね。

英国大使館の最初の出会いでチャーチルが飲んだのが、伝説の「ポル・ロジェ1928年」でした。以降、オデット夫人はチャーチルの誕生日(11月30日)に、1928年物を1ケース、在庫がなくなるまで送ったとのことです。

熱情

老いらくの愛に燃えたチャーチル。

下心がマグナムボトルほどもあり、パリへ来るたびに、大使館でオデット夫人とのディナーをセッティングするよう部下に命じます。堂々たる公私混同であり正しい職権乱用ですね。

1947年に同大使館のクーパー大使が退任して帰国する祝賀会では、深紅のサテンのドレスを着たオデット夫人をチャーチルがエスコートして現れたとか。

チャーチルにとって「飲む、打つ、書く」の「打つ」が競馬。競馬が大好きで何頭も競争馬を所有していました。中でも最も有望な牡馬に「ポル・ロジェ」と命名しました。この出来事により、チャーチル首相の「熱愛」が世界中に知れ渡りましたが、チャーチルは意に介しません。

1953年6月2日、ロンドンから西へ電車で40分の近場にあるケンプトン・パーク競馬場でのブラック・プリンス・ステークスで、ポル・ロジェ号が初勝利。

知らせを受けたチャーチルは嬉しくてたまりません。オデット夫人に1秒でも早く「初勝利」を伝えたかったチャーチルは、ウェストミンスター寺院でのエリザベス女王の戴冠式に出席していた最中なのに、オデット夫人に電報を打ちました。

このようにオデット夫人への「熱情」は、何があっても冷めることはありませんでした。

別れ

チャーチルのオデット夫人への「熱病」は、チャーチルの妻クレメンタインもオデットが気に入っていて、放任したこともあって、チャーチルが死去する1965年1月24日まで続きます。

チャーチルの死去に伴い、同社はNVのラベルに、黒い線(喪章)を入れました。

また、1984年には「キュヴェ・サー・ウィンストン・チャーチル」を発売します。これは、チャーチルの10回忌にあたる1975年物で、マグナム・サイズのみ。ピノ・ノワールを主体にし、チャーチルのように重厚で熟成感がたっぷりあるスタイルです。

この特別キュヴェのヴィンテージは、1975年、1979年、1982年、1985年、1986年、1988年、1990年、1993年、1995年、1996年、1998年、1999年、2000年、2002年、2004年、2006年、2008年で出ています(マーケットにリリースするのは、通常、収穫年の10年後)。

キュヴェ・サー・ウィンストン・チャーチル

チャーチルに対するオマージュは、この特別キュヴェだけではありません。

ポル・ロジェ社の醸造設備は、エペルネ駅から徒歩5分にある超有名な「シャンパーニュ通り(Avenue de Champagne)」にあります。シャンパーニュ通りには名門メゾンがずらりと並んでいます。エペルネ駅に一番近いのがモエ・エ・シャンドンで、ペリエ・ジュエ、ボワゼルと続き、隣がポル・ロジェです。

ポル・ロジェ社の醸造所はシャンパーニュ通りにありますが、経営本部がある本社は、通りを1本中に入った、アンリ・ルラルジュ通りの1番地にあります(住所は、1 Rue Henri Lelarge, 51206 Epernay Cedex)。

この「アンリ・ルラルジュ通り」を「ウィンストン・チャーチル通り」に名称変更。新住所は、「1 Rue Winston Churchill, 51206 Epernay Cedex」になったそうです(このコラム執筆時、Google Mapでは、旧アドレスのまま)。

江戸時代の東海道五十三次の出発点が、現在の「東京都中央区日本橋1丁目」であるのと同様、ポル・ロジェ社の住所が「エペルネ市ウィンストン・チャーチル通り1番地」になりました。「ポル・ロジェ社はチャーチルで始まった」の雰囲気が出ていますね。

その後

オデット夫人の夫で三代目のジャック・ポル=ロジェは、1946年から四代目のジャンに経営権を譲ります。ジャックはチャーチルが亡くなる前年の1964年に死去しました。

オデット夫人は夫が経営権を譲った1945年以降も、ポル・ロジェの「アンバサダー」として販売拡大に大きく貢献します。

明るく美しく、笑顔が愛らしく、社交的でパーティー好きのオデット夫人は、「たくさんの人にシャンパーニュを飲んでもらう」という目的を達成。ワインの世界でオデット夫人は、イタリアのアンジェロ・ガイア、カリフォルニアのロバート・モンダヴィとともに「明るくスタイリッシュにワインを広めた三銃士」です。

シャンパーニュ地方には女傑物語が多く、経営面で辣腕を振るった女傑経営者がたくさんいます。シャンパーニュのイメージ向上に大きく貢献したオデット夫人も「女傑」の一人ですね。

鉄の宰相チャーチルの尻尾をしっかり掴み、美貌と気品を武器に、災難続きだったポル・ロジェ社の基盤をしっかり固めました。

ポル・ロジェ社のラインナップ

現在、ポル・ロジェ社は、以下の7種類のシャンパーニュをリリースしています。

ブリュット・レゼルヴ(NVで、ポル・ロジェのブレンド技術を味わえる)
・リッチ(ドゥミ・セック:半辛口で、晩餐会の最初の1杯として絶好)
・ピュア(ブリュット・ナチュール:無加糖の辛口で、プロ好み)
・ブリュット・ヴィンテージ(ポル・ロジェ伝統のシャンパーニュ)
・ブラン・ド・ブラン・ヴィンテージ(シャルドネだけの優雅なシャンパーニュ)
・ロゼ・ヴィンテージ(オデットのように華やかなシャンパーニュ)
・キュヴェ・サー・ウィンストン・チャーチル(同社の最高峰シャンパーニュ)

愛好家の間では、ピノ・ノワールを主体にした重厚で、たっぷりした熟成感のある「キュヴェ・サー・ウィンストン・チャーチル」が有名ですが、シャルドネだけの「ブラン・ド・ブラン・ヴィンテージ」もプロに大人気。

ブラン・ド・ブランは、エレガントで気品があるのに、一本、強靭な芯が通っています。これぞオデット夫人そのもの。

巡洋艦みたいな「サー・ウィンストン・チャーチル」と一緒に飲んでみたいですね。そうすれば、今からちょうど75年前、「鉄の宰相」と「絹の美女」が初めて出会ったパリの英国大使館のシーンが舌の上によみがえるでしょう。

ポル・ロジェ・ブラン・ド・ブラン・ヴィンテージ