テタンジェが名門になった3つの理由

テタンジェ

シャンパーニュを代表するメゾンの一つ「テタンジェ」。ですが、その歴史は意外にも浅いものです。

今回はそんなテタンジェが、どのようにして超名門とも呼ばれるメゾンに成長することができたのか、その歴史を紐解いていきます。

テタンジェとは?

テタンジェ

ランスにある超名門シャンパーニュ・メゾン、「テタンジェ」。歴史は意外に浅く、創業は1932年。初代となるピエール・テタンジェが、創業1734年のメゾン「フォレスト・フルノー社」を買収するところから始まります。

その後、息子のクロード・テタンジェが1960年に2代目として就任すると、映画「007」の重要な場面で同社のコント・ド・シャンパーニュが登場。さらに、ル・テタンジェ国際料理賞コンクールを主催したり、現代芸術家によるデザインボトルの「テタンジェ・コレクション」のシリーズを開始したりするなどして、一挙に世界中で有名になりました。

テタンジェは、シャンパーニュでは珍しい家族経営のメゾンでしたが、2005年、アメリカ系の投資グループ、スターウッドがテタンジェを買収します。全世界のテタンジェの愛好家はとても心配しました。

しかし、現当主であるピエール・エマニュエル・テタンジェは、孤軍奮闘。あの手この手の紆余曲折を経て、テタンジェの権利を取り戻し、現在は再び家族で運営しています。

テタンジェの特徴は、エレガントなシャルドネにあります。

五尺の大太刀を背負い、裸馬で荒野を駆ける豪快な野武士がボランジェなら、絹のドレスを纏い知的でエレガントなグレース・ケリーがテタンジェでしょう。

特に、テタンジェの看板「コント・ド・シャンパーニュ」は繊細で、絹のように滑らかです。

コント・ド・シャンパーニュ

コント・ド・シャンパーニュ

トレードマークにまつわる逸話

シャンパーニュ地方は、平らで往来がしやすい地にあるため、ヨーロッパ全体の交通の要所として、代々、シャンパーニュ伯爵が300年に渡って統治していました。

この300年も続く名家、シャンパーニュ伯爵家の中で最も有名なのが、詩人としても名高いティボー4世(1201-1253)です。「コント・ド・シャンパーニュ」は、この「シャンパーニュ伯爵」から名付けられました。

ティボー4世は、時のフランス国王、ルイ8世のお妃、ブランシュ・ド・カスティーユ(1188-1252)に、情熱的な詩を多数捧げました。ティボー4世の有名な詩のほとんどは、ブランシュ・ド・カスティーユへ宛てたものだそうです。

これにより、二人の恋愛関係を噂され、ティボー4世は女王の夫であるフランス国王ルイ8世に疎まれます。ルイ8世が急死した時にはティボー4世が毒殺したのではと疑われ、息子のルイ9世の戴冠式への出席を許されませんでした。

ルイ9世からも憎まれたティボー4世は、許しを得るため十字軍の出征に志願し、エルサレムへ向かいました。

テタンジェ社のトレードマークの剣を持ち馬に跨った騎士は、十字軍遠征のシャンパーニュ伯爵、ティボー4世の雄姿です。

テタンジェのトレードマーク

テタンジェのトレードマーク

映画史上、最も「熱演」したシャンパーニュ

テタンジェ

海外映画で食事のシーンがあると、水はなくても、シャンパーニュとワインは必ず登場します。

これまで人類が撮影した何万本もの映画の中で、シャンパーニュが最も重要な役を演じたのは007『ロシアより愛を込めて』でしょう。この映画では、テタンジェの看板、「コント・ド・シャンパーニュ」が俳優以上に重要な演技をしています。

米ソが対立していたそのころ、ロシアの美人大使館員が、暗号解読器を持って亡命しようとしました。それを護衛するのがジェームス・ボンド。

美人大使館員との新婚旅行を偽装して、イスタンブールから一緒にオリエント急行へ乗り、ロンドンを目指します。美人大使館員役が新人女優のダニエラ・ビアンキで、ぎこちない演技が新婚さんの初々しさにピッタリと大好評。美人は得ですね。

ザグレブというユーゴスラビアの駅で、イギリス人将校、グラントと落ち合いますが、実はグラントはロシア人の刺客で、「007を暗殺せよ」との命を受けていました。

そんなこととは知らないボンドは、3人で食堂車へ行きます。ボンドは舌平目をオーダーして、テタンジェのコント・ド・シャンパーニュを注文し、スクリーンに、コント・ド・シャンパーニュがカッコよく映ります。

一方のロシア人は、同じ舌平目にイタリアの赤、キャンティをオーダーします。ロシア人が最も高級と思って選んだのが、キャンティでした。物のない1960年代のロシア。生活レベルの差が残酷なほど露わになっています。

原作者のイアン・フレミングは、大のロシア嫌いで、こんな設定にしたのでしょうね。

食事が終わってコンパートメントへ戻ったとき、ロシア人は正体を現します。

ピストルを突き付けられたボンドは、口惜しそうに言いました。「魚に赤ワインか……うかつだった」。イギリス人なら、舌平目に赤ワインを合わせるなんて、あか抜けないマリアージュはやらない。それを見破れなかったのは不覚だった……ということです。

ロシア人はニタッと笑い「酒に詳しくても貴様の負けさ」と反撃します。ワイン関係者にはちょっと残酷な文句ですね(逆に、ワインに詳しくて命拾いするのが7作目『ダイヤモンドは永遠に』の最後のシーンです)。

コント・ド・シャンパーニュを見るたびに、この名場面を思い出し切なくなります。

ル・テタンジェ国際料理賞コンクール

テタンジェの先代当主、クロードは、食文化と芸術のパトロンで1967年からル・テタンジェ国際料理賞コンクールを主催しています(1967年から2006年までは、ピエール・テタンジェ国際料理賞コンクール)。これと、「ボキューズ・ドール国際料理コンクール」、「エスコフィエ・フランス料理コンクール」と合わせ、フランス料理界の3大コンクールと言われています。

テタンジェのコンクールは、若手のシェフを発掘するためのもので、39歳以下のシェフの登竜門的コンクールとなっています。

あのジョエル・ロブション(注1)も、このコンクールで優勝しました。コンクールでは、フランス、スイス、オランダ、ベルギー、イギリス、日本の6ヵ国で予選大会を実施し、各国の優勝者がパリの本戦へ進みます。

日本人シェフも頑張っていて、1984年大会で東洋軒の堀田大が優勝、2018年には、ラトリエ ・ドゥ・ジョエル・ロブションの関谷健一朗が優勝しました。

(注1)フランスの有名シェフ。2018年、73歳で逝去

テタンジェ・コレクションの誕生秘話

テタンジェ

テタンジェの先代当主であるクロードは芸術好きで、アート・ボトルを立ち上げました。これが、テタンジェ社の最高級シャンパーニュ、「テタンジェ・コレクション」。別名、「泡の出る現代美術」です。

1978年が初ヴィンテージで、他社のプレスティージ物に比べて、デビューは遅いのですが、ボトルのデザインで話題をさらいました。

毎年、ラベルのデザインを変えるシャトー・ムートンに触発され、毎回違った現代美術の画家にデザインを依頼。ムートンは、ラベルの四分の一に絵を描いただけですが、テタンジェでは、ボトルを厚いプラスチックでコーティングし、ボトル全体に絵を描きました。

当初、クロードは、テタンジェ・コレクションの記念すべき第一号芸術家として、ロシアからフランスへ亡命したロマンスの画家、マルク・シャガールを考えていました。シャガールは、ランス大聖堂のステンド・グラスを作るなど、シャンパーニュと関係が深く、テタンジェ社からの打診を快諾しましたが、直後に盲目となります。

クロードは、次に日本人画家の藤田嗣治へ依頼しようとしたのですが、1968年に藤田はチューリッヒで前立腺腫瘍のため急逝。81歳でした。

三度目の正直で白羽の矢を立てたのがハンガリー系フランス人の画家、ヴィクトル・ヴァザルリーでした。ヴァザルリーの得意分野は「オプ・アート」。これは、目の錯覚を利用して、チラチラ動いて見える絵画です。小学生用の雑誌でタイヤの代わりに同心円を描いた車の絵があり、「本をグルグル回して見るとタイヤが回って見えるよ」というのと同じ趣向です。

テタンジェ・コレクションのボトルは、デカくて、重くて、冷えにくいので、扱うのが大変です。しかし、そう考える人には買う資格はありません。

芸術は、飛び切りの美女と同じでたっぷりの愛とお金がないと枯れてしまうのですから。

テタンジェ・コレクションを手掛けた芸術家

シャンパーニュ版「ムートン美術館」のテタンジェ・コレクションは、1978年が初ヴィンテージで、毎回違った現代美術の画家が担当しています。

テタンジェ・コレクションは、年産が5000から6000本。そのうち100本ほどしか日本へ来ません。輸出本数は、ロマネ・コンティの3分の1程度なので、稀少価値は最高です。

以下、初ヴィンテージから最新まで、担当した芸術家を見ていきましょう。

1978年:ヴィクトル・ヴァザルリー

テタンジェ・コレクション

ハンガリー系フランス人で、中学校の美術の教科書にもよく登場する有名人。

目の錯覚を利用した白黒だけのオプ・アートが得意で、波がクネクネ動いて見えたり、ビッシリ描いた細かい線がチラチラ揺れる絵が多数あります。見る方向で見え方が全く違うので、写真に撮るのが超級難しそうですね。

このような目の錯覚を利用した「オプ・アート」の教祖様がヴァザルリーです。一世を風靡したオプ・アートですが、今ではかなり冷遇されています。人類の美術史を24時間に換算すると、オプ・アートは3分間だけ表舞台に登場して消えた気がします。

後継者は、イスラエルのヤーコフ・アガム(ムートンの1984年のラベル絵を担当)ぐらいでしょうか。

1981年:アルマン

テタンジェ・コレクション

世界二大自転車レース、ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリの両方で同一年に優勝するのがダブル・ツール。物凄い栄誉です。これまで、鉄人、ベルナール・イノーやエディ・メルクスら、7人しか達成していません。

1981年のボトルをデザインしたアルマンは同年のムートンのラベルも担当。見事、ワイン界初の「ダブル・ツール」を達成する快挙となりました。

アルマンは、ニース出身の画家で彫刻家。得意手法は、どこにでもある道具や物を分解してキャンバスにバラまくことです。抽象画家の例に漏れず、特に楽器がお気に入りのよう。

テタンジェの絵もバイオリンのニカワをはずしてバラバラにし、金色の型を取りました。クラシック音楽の愛好家には絶好のプレゼントになりそうです。

1982年:アンドレ・マッソン

テタンジェ・コレクション

 

マッソンは、同一年ではないのですが、1957年のムートンのラベルを担当したので、プチ「ダブル・ツール」です。

マッソンは、フランス人の抽象画家で、無意識に浮かぶ意味のないイメージを描き写すという、精神分析手法で絵を描きました。要は、幼稚園児が鉛筆でデタラメに描いた線をもとに、「オヤ、ここは牛に似てるぞ、これは鳥だ」と絵を描いたようなものです。

晩年、ニューヨークへ移住しました。近辺には、同じような移住組のサルヴァドール・ダリ(スペイン)、マルク・シャガール(ロシア)、マックス・エルンスト(ドイツ)ら絵画界の超大物がいたのですが、互いに言葉が通じなかったせいか、交遊はなかったそうです。あぁ、モッタイナイ……

1983年:マリア・エレナ・ヴィエイラ・ダ・シルヴァ

テタンジェ・コレクション

ポルトガルの抽象画家。現代美術家はアクが強いのですが(特に、テタンジェ・コレクションの芸術家は強烈な個性の持ち主ばかり)、シルヴァは控えめで、エレガント。

「現代アートはインパクトが勝負」とばかり、デカいモノが多く、作品の大きさを「号」ではなく「畳」で表したくなりますが、この人の絵や版画は普通の大きさですし、色や構図が繊細。テタンジェのボトル・デザインは、高度1,000mからパリの夜景を見るような風情があります。

なお、どうでもいいことですが、ブラジル人の同名の有名女子サッカー選手がいます(こちらの方が有名かもしれません)。

1985年:ロイ・リキテンシュタイン

テタンジェ・コレクション

第1号となる1978年のボトルをデザインしたヴァザルリーが発明した「オプ・アート」の人気はいまいちですが、これと対照的に大流行したのがポップ・アートです。この創始者のロイ・リキテンシュタインが1985年のテタンジェ・コレクションをデザインしました。

リキテンシュタインは、1975年のムートン・ラベルを担当したアンディー・ウォーホルとともに、ポップ・アートの双璧となります。

ウォーホルは、マリリン・モンローやキャンベル・スープをモチーフにし、リキテンシュタインは、1コマ漫画がトレードマークです。

パルプ・マガジンの『スパイダー・マン』に登場しそうな金髪美女をセリフ付きで描きました。実は、ウォーホルが1コマ漫画をモチーフにした絵を描いて画廊に持ち込んだところ、数週間の差でリキテンシュタインに先を越されたと聞かされたそうです。特許と同様、芸術でも先に作った方が圧倒的に強いのです。

1995年、東京都現代美術館が6億円でリキテンシュタインの『ヘアリボンの少女』を購入したとき、「何で漫画に何億円も税金を使うんだ」と大騒ぎになりました。実際に絵を見ると、その気持ちはよく判りますが「これが芸術」です。

1986年:ハンス・ハルトゥング

テタンジェ・コレクション

この人も、プチ「ダブル・ツール」で、1980年のムートン・ラベルを担当しました。

ハルトゥングは、ドイツ生まれの抽象画家。筆の激しい勢いがそのまま見えるようなアクション・ペインティングを得意としました。習字の時間に小学生が描いたイタズラ書き風ですね。

「構図や色が単純になるほど絵のサイズが巨大化する」という抽象画の法則通り、畳数枚分のデカい絵を多く描いています。テタンジェ・コレクションの絵は刷毛でサラッと描いたもので、作成所要時間は5分でしょうか。

1988年:今井俊満 (イマイ トシミツ)

テタンジェ・コレクション

日本人初のテタンジェ画家。

今井は、24才でフランスに渡りました。形(フォルム)のない絵という意味の「アンフォルメル」が得意で、絵具をキャンバスに投げつけたり、砂を混ぜたりして、偶然にできる形を重視しました。山下洋輔のフリー・ジャズ同様、すべてアドリブという現代画ですが、後年は花鳥風月をモチーフにした正統派へ戻ります。

テタンジェのボトルも、赤地に金色で草花をあしらった純日本風で、正月を祝う重箱に見えますね。

俊満は、「トシミツ」と読むのが正式ですが、不思議なことに、なぜかプロはシュンマンと呼びます。

1990年:コルネイユ

テタンジェ・コレクション

ベルギー生まれのオランダ人画家。本名は、ギヨーム・コルネイユ・ファン・ベフェルローと長いので、コルネイユと呼ぶのが普通です。

ムートンの1994年のラベルを描いたカレル・アペルとともに、「コブラ派」の中心的な画家であり、詩人でもありました。

コブラ派は、名前は暴走族みたいに強そうですが、実は、コブラ派の芸術家の出身地がコペンハーゲン(Co)、ブリュッセル(br)、アムステルダム(a)だったので、その頭文字を取りました。コブラ派は、スカンジナビアの芸術界に大きな影響を与え、コブラ美術館や、コブラ・マガジンもあります。

1992年:ロベルト・セバスチャン・アントニオ・マッタ・エショーラン(通称、マッタ)

テタンジェ・コレクション

この人も、プチ「ダブル・ツール」で、1962年のムートン・ラベルを担当しました。

マッタはチリ出身の画家で、シュールレアリスムの絵を得意としています。「寿限無」みたいに名前が長いので、「マッタ」と略すのが普通です。

遠近感がねじれたような背景に、一昔前のSF映画に出てくるみたいな異星人やメカ物をポツポツ配した絵を多く描きました。

日本の画家、落田洋子に建物の絵を描かせると、こんな感じになるんではと思います。

1998年 ザオ・ウーキー(趙無極)

テタンジェ・コレクション

中国生まれの抽象画家。中国が共産化する前、43歳の時にフランスへ帰化しました。

ウーキーの作品は、私の眼には、色の着いた水墨画や抽象的な書に見えます。日本でも企画展を開かれたほどで、かなりの有名人画家です。

テタンジェのボトルは、白地の下半分に森らしき緑、上空に黄色い月(らしきもの)を配した構図で、やっぱり水墨画を思わせますね。

2000年:ロバート・ラウシェンバーグ

テタンジェ・コレクション

芸術好きにアメリカ人の現代美術家を5人挙げてもらうと、必ず入る有名人がラウシェンバーグです。

自転車が大好きな「チャリンコ少年」で、自転車を分解したり、壊したり、歪めたり、変な塗装をしたりと、自転車をテーマにした絵やオブジェをたくさん作りました。

また、ふさふさと毛の生えた山羊の胴体にタイヤを巻いたオブジェや、鳥の羽で作ったコーヒーカップみたいに、喉の悪い時に見ると咳がでそうな作品もあります。

2000年のラウシェンバーグのボトル・デザインは、テタンジェ・コレクションとして数字を描いた最初の作品ではないでしょうか?

2002年:アマドゥ・ソウ

テタンジェ・コレクション

珍しいセネガル出身の画家。セネガルは、アフリカを数字の「7」に見立てると、横棒の一番左あたりにあります。首都はダカールで、パリ・ダカール・ラリーのゴール地点ですね。元はフランスの植民地で、公用語もフランス語。その関連で、テタンジェ美術館に選ばれたのでしょう。

このボトルは、『宇宙の真珠』をモチーフにしたもので、アフリカの夜空を表現しているそうです。黒を背景に、黄色や緑の鮮やかな円形が輝いています。ねっとり熱く、ほんのり甘い香りが漂うアフリカの夜。漆黒の星空はこうだろうと思わせますね。

2008年:セバスチャン・サルガド

テタンジェ・コレクション

1944年、ブラジル生まれ。ドキュメンタリー系のカメラマンで、2008年のテタンジェ・コレクションも、豹の写真をプリントした異色作。学生時代は、法学や経済学を学びつつ、軍事政権に反対する運動に身を投じました。チェ・ゲバラみたいですね。

1969年、妻とフランスに移住してパリを本拠地に活動します。ブラジルの反政府運動に関わり、フランスに逃れてきた運動家の支援しました。1970年、建築家である妻が、ペンタックスSPとタクマー50mmF1.4レンズを買ったことで、サルガドは写真にのめり込みます。何が人生の転機になるか、分かりませんね。

国際コーヒー機構の職員として、ルワンダ、コンゴ、ウガンダ、ケニヤで農業経営の指導に従事しながら同時に写真も撮り、ついにユージン・スミス賞を受けるまでになりました。