ペリエ・ジュエ 世界最古のシャンパーニュ試飲会レポート

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ディスカバー
公開日 : 2019.5.29
更新日 : 2023.7.12
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ワインボトル

芸術の都、パリ。ファッション・デザイナーや画家、音楽家がパーティーを開くとき、必ず出てくるシャンパーニュがペリエ・ジュエのベル・エポックです。

アール・ヌーヴォーを代表する芸術家、エミール・ガレの描いたスタイリッシュなアネモネがこのボトル全体にエナメルで描かれています。

今回は、ペリエ・ジュエの中で最もスタイリッシュな「ベル・エポック」にまつわる逸話を取り上げ、同社が持っている「世界最古のシャンパーニュ」の試飲会に私がご招待を受けた時の顛末を記します。

目次

ペリエ・ジュエとは

グラス

ペリエ・ジュエは1811年、エペルネに創業しました。社名は、創業者のピエール・ニコラ・マリー・ペリエと、妻のアデル・ジュエの二人のファミリー・ネームに由来します。

本社の建物は、老舗メゾンが軒を連ねる「シャンパーニュ大通り」、別名「エペルネのシャンゼリゼ通り」にあり、モエ・エ・シャンドン社にピッタリ接しています。

あの有名な「ドン・ペリニヨンの銅像」のお尻から2mのところに、ペリエ・ジュエ社はあります。

創立直後から、スタイリッシュなシャンパーニュとして人気になり、イギリスでも大好評でした。

ベル・エポックの誕生秘話

ペリエ・ジュエ

ペリエ・ジュエといえば、アネモネが美しい「ベル・エポック(良き時代)」を連想しますね。

ベル・エポックには、たくさんの人が複雑に関係していて、面白い逸話があります。

ここではベル・エポックの歴史を振り返りながら、エミール・ガレ、畑和助、デューク・エリントンの3人を取り上げます。

エミール・ガレ

芸術作品のようなアネモネを描いたボトルのスタイリッシュなベル・エポック。

この初ヴィンテージは1964年ですが、アネモネの絵自体はさらに昔に遡ります。今から100年以上も前、夏目漱石が国費でイギリスに留学していた頃の話です。

当時のペリエ・ジュエの社長は、新製品用のボトルのデザインをエミール・ガレに依頼しました。ガレは、アール・ヌーヴォーを代表する芸術家です。

アール・ヌーヴォーとは、1900年ごろのほんの10数年の間に大流行した芸術様式です(なので、アール・ヌーヴォー系の作品を見たら、「1900年ごろの作品ですよね」と無条件に言えば、相手は物凄くビックリしてくれます)。

アール・ヌーヴォー様式では花、昆虫、爬虫類をエレガントな曲線で描きました。蛇や魚やトンボみたいな、フランス人が不気味に感じるものを積極的にモチーフにし「手に触れるギリギリの気色悪さ」を見切ったことで、人々に大きなインパクトを与えました。

そんなアール・ヌーヴォーの第一人者がガレで、ナンシー(アルザスに近く、ストラスブールの40km西)を拠点にしました。

アンティーク・ショップに行くと、奥にある鍵のかかったキャビネットにガレのガラス製ランプが陳列してあり、7万円の値札が付いていたりします。

意外に安い理由は、ガレのガラス工芸品は、ガレ自身が作ったものは少なく、ほとんどが「ガレ工房」で職人が作ったためです。ガレがデザインし、製造方法を考えて大量生産しました。

畑和助(はたわすけ)

畑和助(以下、畑)を知っている人は、アール・ヌーヴォーのトップ・プロと思って構いません。

フランス革命の100周年にあたる1889年に開催されたパリ万国博覧会に、明治政府が日本庭園を「出品」しました。

このパリの万博会場に日本庭園を作ったのが畑和助です(注1)

日本庭園はフランスで大人気となり、パリの文化人はこぞって自宅に日本庭園を作りました。文豪のロベール・ド・モンテスキュー伯爵もその一人で、畑は博覧会終了後もパリに残り、伯爵の専属庭師となります(結局、畑は日本へ帰らず、フランス人女性と結婚しました)。

ラフィット・ロートシルトやムートン・ロートシルトの親戚筋であり、ボルドーのリストラック村にシャトー・クラークを所有したエドモン・ド・ロートシルト男爵は、モンテスキュー伯爵にお願いし、畑に自宅の日本庭園を作ってもらったそうです。

畑は、当時の文献にも登場します。モンテスキュー伯爵は、回想録に「畑は天才的な庭師である」と書き、さらに、フランス文学のトップ5に入る超名作、マルセル・プルースト著『失われた時を求めて(注2)』に登場する日本人の庭師も畑だそうです。

ジャポニスム(注3)は、エミール・ガレも魅了しました。

ガレは、自宅の広大な庭に、数百種類もの日本の植物を植え、畑がこれの手入れをしました。畑が育てた植物の一つが「秋明菊(シュウメイギク)」で、日本産のアネモネです。日本の芸術に深く感銘を受けていたガレは、エレガントで生命力溢れる秋明菊がお気に入りでした。

ガレがベル・エポックに描いた白いアネモネは、実はこの秋明菊なのです。

(注1)明治政府の命で渡仏したので、政府から旅券発給(今のビザ)を受けました。旅券発給台帳には、「神奈川縣橘樹郡鶴見村千拾番地の平民、畑和助に、佛 巴里府を目的地として旅券を発給」とあるそうで、畑は横浜市鶴見区の出身でした。

(注2)原題は『À la Recherche du Temps Perdu』。ロマネ・コンティの畑にある十字架に突き当たる小道の名前が「Rue du Temps Perdu」です(google mapで調べてみてください)。日本語なら「時間消失通り」でしょうか?

(注3)日本庭園とともにフランスの文化人の間で大人気が浮世絵でした。例えば、「ひまわり」で有名なゴッホは、広重の浮世絵そっくりの絵を描いています。また、浮世絵の画法も、ヨーロッパの人には斬新でした。ヨーロッパの画家は、何人もの人が登場する絵を描く場合、すべての人物の全身を描きます。絵の端だからといって、人物を左半分や上半分で切ることはありませんが、浮世絵では、絵の端では、人物が半分に切れていたりします。この斬新な画法に刺激を受け、例えば、踊り子で有名なドガの絵には、身体の一部が切れたバレリーナが描いてあります。ヨーロッパのジャポニスムは、100年前は「浮世絵」で、現代は「アニメ」ですね。

デューク・エリントン

エミール・ガレは、秋明菊をモチーフに描いたマグナム・ボトルを4本、ペリエ・ジュエ社に送りました。1902年のことで、ガレが56歳で没する2年前でした(日本では、日露戦争の2年前です)。

アネモネ・ボトルを見た社長は悩みました。「確かに美しいデザインだけれど、エナメルでボトルにアネモネの絵を描くのは製造コストが高すぎる……」と。

かくして、アネモネのボトルは、同社のセラーで「冬眠」するのです。

「秋明菊ボトル」が陽の目を見たのは60年以上経った1964年、東京オリンピックの年です(日露戦争の60年後が東京オリンピックとは意外に近くて、日本の急激な進歩を感じますね)。

新製品として「ベル・エポック」を出そうとしていた絶妙のタイミングで、セラーの隅で埃を被っていた「アネモネ・ボトル」を発見します。「これは美しい。このボトルを使おう」。

こうして「シンデレラ姫」は長い眠りから覚め、1964年の初ヴィンテージが登場しました。

「この美形ボトルはぜひ、大々的に世界にデビューさせたい」。そんな思いから、ベル・エポック1964年の初お披露目は、1969年4月29日。ジャズ界の巨匠、デューク・エリントンの70歳の誕生日を祝してコルクを抜くことにしました。

ここまでの記述は、いろいろな文献で一致します。問題は場所です。1969年4月29日にエリントンはどこにいたのか?

ある資料には、パリのレストラン、ラルカザール(L’Alcazar)で誕生会を開催したとあり、セクシーなオネエサンにハグされて、デレデレのエリントンの写真が載っています。

一方、別の文献には、ニクソン大統領がエリントンをホワイト・ハウスに招き70歳のお誕生会を開いたと書いてあるのです。

その時に、友人のジャズの巨匠達が集まってコンサートを開き、そのライブ演奏は2002年にジャズの名門レーベル「ブルーノート」が『1969 All-Star White House Tribute to Duke Ellington』として出しました。

CDの解説文には、収録日は1969年4月29日と明記してありますし、ホワイト・ハウスの公式行事で日を間違うはずがありません。

CD

1969 All-Star White House Tribute to Duke Ellington

エリントンが誕生日を迎えたのは、パリのキャバレーか、ワシントンDCのホワイト・ハウスか?

それとも、2時間ミステリー番組風に米仏の6時間の時差を操って、パリからアメリカに移動したか?

エリントンのアリバイは謎です(こんなことを詮索するのは私だけでしょう)。

世界最古のシャンパーニュ

世界最古のシャンパーニュ

世界最古のシャンパーニュ

ギネス・ブックに載っている「現存する世界最古のシャンパーニュ」は、ペリエ・ジュエ社の地下セラーに眠る1825年物の3本のマグナム・ボトルです。

2009年の1月にペリエ・ジュエ社から私に電話がかかってきて「3月に世界最古のシャンパーニュを開けますので、飲みに来ませんか」と、お誘いを受けました。

創業が1811年のペリエ・ジュエ社は、2011年に200周年を迎えるのを記念し、地下カーヴに眠る1825年から2002年までの同社のライブラリー(収集庫)から22本を試飲し、そのテイスティング・コメントを載せた記念本を出すことにしました。

その試飲会に世界のワイン・ジャーナリストを1ダース招くことにし、幸運にも私にお誘いの電話が来たのです。

電話を受けた当初、新手の振り込め詐欺かと思いましたが、本当だと分かり「何が何でも、親が死んでも、絶対にお伺いします」と返事をしました(同年7月、本当に親父が死去し、「馬鹿なことを言った。親父、すまん」と物凄く後悔しました)。

最古のシャンパーニュを作った1825年は、平和な江戸後期の文政8年で、大きな出来事はありません。大塩平八郎の乱が起きたのが1837年で、1825年は、まだ平八郎が何の不平もなく真面目に大阪で奉行所勤めをしていた時代です。

この「最古のシャンパーニュ」のデゴルジュマンが1833年とのことなので、この頃には平八郎の江戸幕府に対する怒りがシャンパーニュ同様、6気圧分溜まり、1837年に大爆発して米問屋を襲撃したのでしょう。

月夜茸のチェロの二重奏

チェロの演奏の様子

2人の美人チェリストによる生演奏

3月4日、世界最古のシャンパーニュを試飲する前夜、エペルネのペリエ・ジュエ社に到着して各国の12名のジャーナリストと顔合わせをしました。

その後「ディナーの準備が整うまで、ご歓談下さい」と迎賓館のリビング・ルームに通されました。迎賓館はトイレの便器以外、全てがアール・ヌーヴォーの様式で(便器は日本が誇るTOTO製で、とてもスタイリッシュでした)、ドアのフレームまでエミール・ガレの手になる妖しい曲線でできています。

「ペリエ・ジュエはアール・ヌーヴォー」と方針を決め、突っ走っている感じでした。

エミール・ガレの収集は、個人としては世界一だそうです。美術館の収蔵品レベルの作品が迎賓館の中にごろごろしていました。

日本の美術館なら、近寄っただけで警備員が飛んでくるのですが、迎賓館ではガレの椅子に触ろうが座ろうがなんでもOK。ガレ手作りの椅子に座れて、大感動しました(ガラス作品は工房で作りましたが、家具と陶器は、ガレの個人作です)。

ガレ作の椅子

エミール・ガレ作の椅子

隣の部屋では、イブニング・ドレス姿の美人チェリストが二人、エミール・ガレの名品「月夜茸のランプ」の灯りを浴びて、クレンゲルの甘くて切ない『2台のチェロのための組曲ニ短調』を演奏しています。そんなゴージャスな雰囲気の中、ギャルソンが2000年のベル・エポックのブラン・ド・ブランをサービングしてくれたのです。

歓迎ディナーの会場は、ロウソクを灯した地下カーヴでした。ひんやりとしたカーヴに15人が並んで座り、最初に、初ヴィンテージのベル・エポック1964年で乾杯しました。泡がちゃんと残っていて、シェリーのような熟成香が素晴らしい。こうなると、泡の出るムルソーですね。

ディナー会場は、洞窟のように天井が低くて狭いため、コルクを抜いた瞬間、45年の熟成を経たシャンパーニュの官能的な香りがカーヴを満たしました。この香りが濡れた石灰岩の壁の匂いとねっとり絡みつき、幻想的な空間に変化したのです。

世界一ゴージャスな垂直試飲会

ワインボトル

試飲したボトル中央左の男性は醸造責任者のエルヴェ・デュシャン氏、右はコーディネータのセレナ・サトクリフ女史

翌日、10時からベル・エポックの垂直試飲会が始まりました。今回の22ヴィンテージの「縦飲み」は、厳密には垂直試飲ではありません。ベル・エポックの初ヴィンテージは1964年なので、それより前の物(および、1975年物)は通常のヴィンテージ・シャンパーニュです。

ただし、ペリエ・ジュエ社の地下カーヴの漆黒の闇で「修業」に励み、一歩も外へ出ず、門限も破らなかった箱入り娘が全てマグナム・ボトルで登場するので、素性も保存状態も完璧な22人もの超級美女が揃いました。

シャンパンのコルク

1952年、1955年、1959年のコルク

試飲して、一番驚いたのは、コンディションの素晴らしさ。いわゆる「オダブツ香」のシャンパーニュが一つもありません。これが、「蔵出し」と「マグナム・ボトル」の相乗効果でしょう。(試飲コメントは、次章を参照してください)

このあと、面白い話があります。

試飲会が終わり、全員が迎賓館でディナーの席に着いたときのこと。最初に赤ワインが出てきました。

それを見た全員が「おぉ、ついに赤が来た」と大喜び。この赤が、オー・ブリオン1990年でした。

シャンパーニュの赤、コトー・シャンプノワではなく、ブルゴーニュの赤でもなく、ボルドーというのがミソです。

ブルゴーニュなら、同じピノ・ノワール同士なので「気分転換」にならないのでしょう。聞けば、シャンパーニュのメゾンで赤ワインを出す場合、ボルドーが定番だそうです。

オー・ブリオンを選んだのは、最高醸造責任者のエルヴェ・デュシャンさんによると「私はボルドーでオー・ブリオンが一番好きだから」とのことでした。

テイスティング・コメント

以上が世界最古のシャンパーニュ試飲会でのお話です。以下では、その際にテイスティングしたワインの私なりの試飲コメントを記載します。

2002年

泡立ちがよく、若々しい白いフルーツの香りにバターの匂いが混じる。イメージは、新人賞を受賞したジャズの新進ピアノ・トリオの女性ピアニスト。あるいは、将来に無限の可能性が広がる女子高の3年生。数年経って、親に秘密を持つ頃が楽しみ。

1996年

熱い昼と寒い夜が作り上げた凝縮感がスゴい。酸がシャープで泡も踊っているのに、コーヒーやナッツ系の熟成香が出ている。甘味もあり、すべてでスケールが大きい。どちらかというと、真面目系。品行方正なサルバドール・ダリという雰囲気。

1995年

1996年の直後なので、損をしているか? 白い果実の香りが際立ち、甘味と酸味のバランスがよい。もっと繊細かと思ったが、案外、粗削り。悪女の迫力と官能で勝負するタイプ。間違っても、ルノワールが描く少女のようにチャーミングな女性ではない。

1985年

黄金色に輝き、ナッツやブリオッシュの熟成香が素晴らしい。酸味が物凄くきれいで、滑らかで端正な甘味もある。泡が非常に細かくて、育ちの良さを感じる。1995年が官能のジェーン・マンスフィールドなら、これは清楚なイングリッド・バーグマンだろう。

1982年

ヴィンテージ的には、1985年より評価が高いと思うが、こちらの方がエレガントで繊細。凝縮感と複雑さはさすが。上品な甘さとセクシーさは1985年より上だろう。24歳の若さで死去した絵画界屈指のハンサム男、モディリアーニが36歳まで生きて描いた裸婦画という感じ。

1976年

ベル・エポック1976年があれば、世界のペリエ・ジュエの愛好家はクリュッグ・コレクションに嫉妬する必要はない。熟成したシャンパーニュの定義がこれだ。老獪でスケールが大きく、人物に例えるなら、巡洋艦のような鉄の宰相で「飲む、打つ、書く」で名を残した、ウィンストン・チャーチルだ。

1975年

気候に恵まれず、雨の中の収穫となった年。秋の冷たい雨のように、酸味が鋭く痩せている。逆の見方をすれば、キリッと引き締まった良さがあり、好きな人も多いはず。人に例えるより、アルベルト・ジャコメッティ作の贅肉を削ぎ落とした彫像みたい。

1971年

イケムのように黄金色。シェービング・クリームのように細かい泡が印象的。シャープでスケールの大きな酸味に、焼けた鉄板に醤油を1滴垂らした香りがある。今回の試飲会のコーディネーターのセレナ・サトクリフ女史は、この熟成香が嫌いらしい。ちょっと華やかで、グスタフ・クリムトの描くエロチックな絵のよう。

蛇足ながら、このボトルはコルクを抜くのが大変だったようで、ソムリエは22ヴィンテージの中で一番真剣な顔をして、ペンチで針金を切っていた。

1964年

ベル・エポックの記念すべき初ヴィンテージ。ゴージャスで余韻が異常に長く、泡の出るモンラッシェだ。ロール・ケーキやコーヒーのような健全な熟成香がある。このシャンパーニュの初公開は1969年で、場所はパリのナイト・クラブ(?)。銀河系最高のジャズのビッグ・バンドの親分であるデューク・エリントンの70歳の誕生日に合わせてお披露目された。派手で女好きで陽気なエリントンそのもののシャンパーニュ。

1959年

クリーミーでアルコール度が高い。プリンの上にタップリかけたカラメル・ソースの香りが顕著で、ブリオッシュそのもの。あとからモカの香りが追いかける。これは単体でデザートになる。エル・グレコの描くビロードをまとった豪華な女性みたい。

なお、コルクは針金留めではなく、ブション留め(超大型のホチキスの針で留めたもの)。コルクの上部が捩じ切れてしまい、ソムリエはソムリエナイフのスクリューを入れてそーっと抜いていた。さすが、古酒を開け慣れたプロ。この名人芸に全員から拍手が起きる。

1955年

泡はクリーミーだが、液体の色調が淡く、少し濁りが見える。冷やした石臼で大麦や小麦をすり潰したような香りがある。これまでのラインナップに比べると、甘味や酸味が地味。小さいながらまとまっている。ユトリロの描くパリの下町の壁みたい。

1952年

「収穫量は今の半分です」と醸造責任者のエルヴェ・デュシャン氏の言葉が、この凝縮感を説明しているかも。

50年以上前のシャンパーニュと思えないほど泡が多くてクリーミー。黄金色の中に、軽業師のような澱が舞う。オレンジ、ライチ、パッションフルーツを混ぜて、カラメルを加えたようにエキゾチックでゴージャス、かつ、品が良くて巨大な甘さがある。ここまでくると、別の次元の飲み物だ。泡のある極上のソーテルヌ、あるいは、尾形光琳の絢爛豪華な金箔の屏風か?

私にとって「本日の金メダル」はこれ。

1928年

1952年物とは一転して泡はほとんどない。ホットケーキにかけるシロップの香り。酸が強めだが甘味もあり、ムルソーのニュアンスがあるが、普通のムルソーとは明らかに違う。甘くて、トロンと気だるい穏やかさがあり、スーラが点描で描く穏やかな南地中海の風景画みたいな雰囲気。

1911年

これも泡がほとんどなく、黄金色に輝く。ブリオッシュの熟成香にゴボウの匂いを感じる。麦チョコやヌガー・キャラメルを思わせるほど凝縮度が凄い。この精密さ、完成度の高さは、超寡作の画家、フェルメールの絵に通じるところがある。

「本日の1等賞」にこれを選んだ人が最も多かった。ちなみに、この年はフィロキセラのため、この1種類しか作らなかったらしいし、ペリエ・ジュエ社が倒産しそうになったのもこの年だそう。

1906年

103歳のシャンパーニュ。香りはシェリーそのものだ。泡はないが、泡のあった痕跡はしっかり残っている。ベッドの毛布が少し温かく、よい香りがするので、5分前まで美女が寝ていたことが分かる感じ。

なお、本日の「コルク抜き困難大賞」の中でも、トップ3に入るのがこれ。コルクの上が簡単に捩じ切れた。スクリュープルを差し込みジワジワ抜いている間、全員が息を止めて見守った。きれいに抜けた瞬間、全員から拍手喝采。ソムリエは誇らしさ半分、気恥かしさ半分で小さくお辞儀を返した。

1892年

コルクを留めているのは普通の紐ではなく皮紐だった。コルクが上がってこないので、ソムリエ・ナイフを差し込んだが、かなり固そう。液面はボトルの肩まで落ちていて、みんな、「大丈夫かなぁ」と心配そうに覗き込む。

醸造責任者のエルヴェ・デュシャンさんが試飲して顔をしかめ、試飲会のコーディネーターであるセレナ・サトクリフ女史もアレッという表情をする。悪い予感は当たり、ブショネだった。

私は、世界で一番ブショネに鈍感なので、グラスに入れてもらって試飲したが、湿った駅弁の折り箱を器にしてシャンパーニュを飲んでいる程度であり「これくらいならイイじゃん、十分美味いよ」と言ったが、却下される。参加者には残念だったが、私はブショネに鈍感でよかったと思った。

1874年

これを飲んだ瞬間、神の領域に一歩足を踏み入れたと感じた。

フィロキセラ前のブドウで作ったシャンパーニュ。コルクは真ん中で折れ、二人がかりでコルクを抜いた。もちろん、泡はない。酸味が物凄くきれいな上、甘みが大きい。シェリーというか、辛口のイケムがこれ(でも、断じて「イグレック」ではない)。余韻が驚異的に長く、活き活きと枯れている。

神を見たければ、バッハの「マタイ受難曲」を聞くか、このシャンパーニュを飲むがよい。

1858年

井伊直弼が大老になった年のシャンパーニュ。セメダインの匂いに、桜餅、ベッコウ飴、アンズ飴の香りが重なって、昔の縁日に迷い込んだ感じ。物凄い凝縮感がある上、酸味と甘さのバランスが絶妙。

ソーテルヌ、モンラッシェ、このシャンパーニュで白ワインの正三角形ができそう。

1846年

泡はないが、輝きが素晴らしい。1858年同様、ベッコウ飴とアンズ飴の香りがして、最後に少し馬小屋、漆喰壁、熟した柿の匂いを感じる。甘さは控えめながら、酸が非常に元気。コンディションは非常によく、163年間、漆黒のカーヴで修業をした成果が出ている。

1825年

現存するシャンパーニュで世界最古。圧力がなく、コルクが上がってこないので、ペンチで少しずつ持ち上げた。シェリー系の熟成香の中に、ヒネ香が少々。もちろん、泡はないが、控えめな甘みがあるので、上品なフルーツ・コンポートのような香りがした。桃の香りの余韻が後を引く。これだけの年を経て、ちゃんと飲めることに大感動。

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