「ムートン美術館物語」その2-1945年 フィリップ・ジュリアン-

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公開日 : 2018.6.26
更新日 : 2023.7.12
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赤ワインが注がれているワイングラス

毎年、ラベルのデザインを変えることで世界的に有名なのが、ボルドー、メドック地区の1級シャトー、ムートン・ロスチャイルド。なぜ、ムートンがラベルの絵を毎年変えるのか?

評論家は、「ワインと芸術の融合」と言っているが、私は、「同じロスチャイルド家のラフィットに対する強烈なライバル心」が伏線にあり、さらにその後ろに、フランス人の強い階級意識があると考えている。この「階級意識」が分かると、ムートンがそこまで頑張った理由が理解できるので、以下、簡単に触れておこう。

目次

フランスの階級意識とは

近代国家には珍しく、フランスは階級意識が強い国である。例えば、結婚は同じ階級、職業同士が基本で、相手が見つからないと、外国人から探す。ペトリュスの当主、クリスチャン・ムエックス氏も、ロマネ・コンティの共同経営者、オベール・ド・ヴィレーヌ氏も、奥さんはアメリカ人だ。

フランスでは、高校から20歳ぐらいまでで職業や階級が決まるので、じっくり年月をかけて成功する「大器晩成」型のストーリーは生まれづらい。そこで、ロスチャイルド家は考えた。

ヨーロッパで最もお金持ちと言われたロスチャイルド家だったが、実はフランスでの「金貸し」の階級は高くないのだ。ロスチャイルド家が、「階級ロンダリング」としてワインを作り始めたのは、そんなフランスの階級意識が背景にある。

同じロスチャイルド家に端を発するムートンとラフィット。ムートンの初代オーナー、ナサニエル男爵は、自分のシャトーが2級なのに、叔父さんのジェームス男爵が所有するラフィットが1級なのが気に入らなかったに違いない。

1868年、メドックの格付けでラフィットが1級になった後、ジェームス男爵が強引にラフィットを競り落としたのだ。ナサニエル男爵には、このことが、「ムートンが2級であることへの当てつけ」とか、「後だしジャンケン」に見えたろう。ジェームスが同じ2級格付けのシャトーを買っていたら、ナサニエル男爵はここまで頑張らなかったのではないかと。

例えると、無理をしてベンツを買って親戚中に自慢をしていたら、叔父さんが対抗意識を燃やしてロールス・ロイスを買ったようなもの。それ以降、同じ親戚筋ながら、強烈なライバル意識がムートンに芽生え、代々、家訓として受け継いだに違いない。

格付け1級昇格に向けて

1級と2級の差は、日本人が想像するよりはるかに大きい。その間には、幅、深さとも1,000mの渓谷があり絶対に越えられない。1級のラフィットは2級のムートンより圧倒的に格上だ。

将棋でもサッカーでもビジネスでも、形勢が不利と思っている側が、いろいろ動いて仕掛ける。1922年、20歳の誕生日に4代目としてムートンを相続したフィリップ・ド・ロートシルト男爵は1級昇格に命を懸けて、仕掛けていく。

第1弾「シャトー元詰め」

地下ワイナリー

その第1弾が、「シャトー元詰め」だ。

当時、ワインは樽でネゴシアンに売り、ネゴシアンが瓶詰めしていたが、水で薄めたり、質の低いワインを混ぜたりと不正が多かった。これでは品質を保証できないと考えたフィリップ・ド・ロートシルト男爵は、シャトーでの瓶詰めを決断した。

シャトー・ムートン ロートシルト

そして、第2弾がアート・ラベルだ。

1945年は、連合国がドイツに勝利して第二次世界大戦が終わった年である。第二次世界大戦はフィリップ・ド・ロートシルト男爵に大きな影響を与えた。大戦が始まりドイツ軍がフランスに侵攻すると、ナチス・ドイツ軍から逃れるため、妻のリリー、娘のフィリピーヌ(後のムートンの当主)とムートンから離れた。

マルセイユで妻と娘と離れ離れになったフィリップ・ド・ロスチャイルド男爵は、44時間かけてピレネー山脈を徒歩で横断し、スペイン、ポルトガルを経由してイギリスに入る。戦争が終わり、ムートンを占領していたドイツ軍がシャトーからいなくなった喜びは大きかったろう。

しかし、妻は、強制収容所で亡くなり、シャトーは荒れ放題。一方、1945年は20世紀を代表する例外的に優れたヴィンテージだ。フィリップ・ド・ロスチャイルド男爵には、いろいろ複雑な思いがあるが、心機一転、シャトーを復興させねばならない。「新しいスタート」の意味と、世界大戦が終わった記念として、軽い気持ちでアート・ラベルを出したと思われる(1945年のラベルは、本体ラベルと一体化しておらず、別貼り)。おそらく、老舗の煎餅屋さんが、「創業200周年記念」のラベルを上から貼るような気持だったはずだ。

記念すべきアート・ラベル第1号が完成

シャトー・ムートン ロートシルト 1945年 フィリップ・ジュリアンのラベル

ムートン1945年 フィリップ・ジュリアンのラベル

アート・ラベル第1号の画家はフィリップ・ジュリアン(1921-1977)で、当時、23歳の無名の画家であり、商品の包装紙のデザイナーだった。ジュリアンは、別貼りラベルの依頼を受けて、全部で4枚の絵を描いた。

「ピエロのような服装の男性がブドウ畑でワインを飲んでいる絵」、「羊の頭をした男性が赤い縞模様のシャツを着てワインを飲んでいる絵」、「ブドウ畑に大きなガラスの球があり、中に天使が二人いる絵」、そして、「ブドウの葉の真ん中に勝利のVサインを黄色で描いた絵」だ。

男爵は、Vサインの絵を選び、その上に、「ANEE DE LA VICTOIRE(勝利の年)」と書き込んだ。男爵は、自分を苦しめ妻を奪ったドイツ軍を撃破し、連合軍が勝利したことが物凄く嬉しかったに違いない。

フィリップ・ジュリアンが起用された理由

シャトー・ムートン ロートシルト 1945年 フィリップ・ジュリアンのラベル

ここで、誰しも疑問に思うのが、「なぜ、ラベルの絵を有名画家に頼まず、新人を起用したのか?」だ。

後にムートンのラベルを描いたパブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ホアン・ミロ、マリー・ローランサンは、1945年当時、すでに有名人だったのに、なぜ、依頼しなかったか?

ここにもフランスの強烈な階級意識がある。

そのころ、商品に絵を描く「パッケージ・デザイナー」や「商業画家」は、芸術家の中でも階級が低く、大家は引き受けなかった(1979年のラベルを描いた堂本尚郎も、パリ在住時に男爵から電話で直接、ラベル絵を依頼されて、最初は断っている)。

日本の昭和30年、40年代、映画の大物俳優がテレビを格下扱いして、出演しなかったようなものだろう。そこで、男爵の知り合いの新人画家であるジュリアンにラベルを依頼した。

別貼りラベルが意外に好評だったので、翌年も続けることにしたが、描いてくれる画家が見つからない。今から考えると信じられない話だ。1946年以降は、絵心のある友人にラベル絵を依頼した。この友人が、ジャン・コクトーであり、マリー・ロラサンだ。

1945年の「アート・ラベル第1号」は、男爵の複雑な思いだけでなく、フランスの複雑な社会構造も反映しているのだ。

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