vol.10『洞窟の音楽』はこ
ちら
2005年『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。料理家としても活動し、メニュー開発なども手がける。 主な著書 『スープの国のお姫様』(小学館) 『ロジカル男飯』(光文社新書)
この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
レストランの空気はよどんでいた。その原因は奥のテーブルの夫婦で、さきほどから一言も会話をしていなかった。
「あれは喧嘩だな」ぼくが客席と調理場のあいだにあるパントリーでパンを切っていると、先輩がため息をついた。「店の雰囲気が重たくなるから勘弁してほしいんだけど」
夫婦は店の常連で月に一度は来店して、食事を楽しんでいる。二人とも六十歳は過ぎていると思うが、若々しいので本当の年齢はわからない。旦那さんはいい靴を履いているので裕福なのはたしかだ。
「いかがいたしましょうか」
夫婦がメニューを閉じたのを見計らって、先輩がオーダーをとる。
「ショートコースで」
「かしこまりました。メインのお料理をお選びいただけます」
「そうだなぁ、どうしようかな」
旦那さんが奥さんに視線を送ったが、彼女はそれを無視する。緊張感のある状況だ。今日のメイン料理はうずらのロースト、牛ハラミのステーキ、銘柄豚の炭火焼き、仔羊のパイ包みだった。
「いつもの赤ワイン煮込みってない?」
「そうですね。少々、お待ち下さい」
赤ワイン煮込みは店の定番料理の一つで昼間、仕込んでいたのは知っている。赤ワイン煮込みは一度煮込んでから一晩冷蔵庫で寝かし、それからソースで仕上げる。出来上がるのは明日なので、今日のメニューには載っていないのだ。
先輩は調理場に赴くと、デシャップ越しにシェフに声をかけた。
「赤ワイン煮込みって、出せませんかね」
「昼、仕込んだばかりだからなぁ……」
シェフは露骨に嫌な顔をしている。
「そこをなんとかならないですか」
「作れないことはないけど……ソース作るのに時間かかるよ」
「大丈夫です。ありがとうございます。前菜に添えているディルも多めでお願いします」
先輩はシェフにウインクすると客席に戻った。
「お待たせしてすみません。少々、お時間頂戴しますが、赤ワイン煮込みをご用意いたしますね。あとは……うずらですね。かしこまりました。ワインはいかがいたしましょうか」
先輩はテキパキと注文をとると、パントリーに戻ってきた。
「メニューにない料理の注文とってきて、大丈夫なんですか?」
ぼくが質問すると先輩は頷いた。
「大丈夫。少し時間がかかったほうがいいんだ」
時間がかかったほうがいい、というのは、ぼくにはわからなかった。レストランで一番お客さんの満足度が下がるのは、料理の提供に時間がかかることだからだ。
調理場で作られた料理がデシャップに並べられる。呼び出しベルが鳴ると、ぼくは皿がのったプラッターという大きなお盆を客席に運び、先輩たちが客席に提供する。華やかな前菜がテーブルに置かれると、お客さんは感嘆の声を漏らす。その瞬間、こちらの心も弾む。
「前菜です」問題のテーブルに前菜が運ばれる。「ディル、少し多めにしてもらいました。ゆっくりお召し上がりください」
「それはうれしい」
お好きですよね、という具合に先輩が微笑むと、さきほどまで夫婦のあいだにあった険悪な空気がいくぶん和らいだ気がした。
ワインを口に運びながら、二人は食事を進める。調理場ではソースの準備が整い、煮込んだ肉が温められる。時間が経つほどに夫婦の間に流れる空気が変わるのがわかる。この時間が必要だったんだ、とぼくは気づく。テーブルに赤ワイン煮込みが運ばれるとグラスワインの注文が入る。料理に寄り添う赤ワイン。別のテーブルに皿が運ばれ、下げられる。客席の静かなざわめき。いつのまにかぼくもその一部になっていて、時間が滑らかに流れていく。
豚肉とプルーンの赤ワイン煮込み
【材料】 (2人分)
・豚肩ロース 300g
・塩 小さじ1/4
・ドライプルーン 10粒程度(70g程度)
・紅茶 200ml
・赤ワイン 300ml
・水溶き片栗粉 適量
【作り方】
1.ドライプルーンに紅茶を注ぎ、30分程度戻す。豚肩ロースは薄く塩を振り、中火にかけたフライパンで全面を焼く。
2. 赤ワインを加え煮立て、アルコール分が飛んだら1のドライプルーンと紅茶を加える。沸いたら弱火にして蓋をした状態で1時間煮込む。
3. 肉がやわらかくなったら水溶き片栗粉でとろみをつけ、皿に盛り付ける。好みで生クリーム(分量外)を添える。
文・写真=樋口 直哉
今回ストーリーに登場したワインは…
オー・メドック・ジスクール
赤
パワフル&ストラクチャー
伝統に裏打ちされた品質を誇る格付けシャトー。ファーストと同じ醸造チームが手掛ける、果実味たっぷりの凝縮感あるサードワイン。 詳細を見る
4.1
(121件)2020年
4,950 円
(税込)
V 92
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