芸術家が愛したワイン

芸術家とお酒は切っても切れない関係にあります。特に、ワインやシャンパーニュは多くの作品に登場しますし、芸術家自身もたっぷり飲みました。

今回は、芸術家が愛飲したワインとして、アーネスト・ヘミングウェイとシャトー・マルゴー、アルベール・カミュとフルーリー、藤田嗣治とG.H.マムを取り上げます。

アーネスト・ヘミングウェイとシャトー・マルゴー

フランスが世界に誇る銘醸ワインがボルドーの5大シャトーです。

1980年代に造った5大シャトーは、若いうちに飲むと、どれもずっしりどっしり濃厚で、渋みがたっぷり乗っているので、口の中が紙やすりを敷き詰めたみたいにギシギシしました。色が黒に近いほど濃いので、歯と舌が紫に染まったことを覚えています。今は、リリース直後でも美味しく飲めるようになり、ブドウの栽培法や醸造技術の大きな進歩を感じます。

5大シャトーの中で、1番男性的なのがシャトー・ラトゥールで、最もエレガントなのがシャトー・マルゴーとよく聞きます。

しかし実際に目隠し試飲で同じヴィンテージの5大シャトーを飲み、「これが1番女性的なので、マルゴーだ」とズバリ当てられる人は、世界のトップ・ソムリエでも多くはないでしょう。マルゴーが最もエレガントというのは、100億1万円の資産家は、100億2万円の大富豪より貧乏だと断じるのに似ていると思います。

伝説の醸造学者、エミール・ペイノーは、「マルゴーは女性だ。ただし、髭が生えている」との名言を残しました。ラトゥールが男性的で、マルゴーがエレガントと思うのは、白い上品なラベルから受ける印象が強いように思います。ラベルで、ライオンが塔の上で吠えているラトゥールはどう見ても豪快な男性をイメージします。

5大シャトーの中で、最も人気が高いのがマルゴーでしょう。

マルゴーの華やかさと無縁に思える共産主義者のフリードリヒ・エンゲルスは、実は、富豪の生まれでマルゴーの大ファン。「あなたにとっての幸せとは?」と聞かれ、「シャトー・マルゴー1848年」と答えたそうです。

スタイリッシュで高貴な悲劇が最も似合うワインもシャトー・マルゴーでしょう。

愛好家も生産者も、エレガントな哀しみに包まれている気がします。その好例が、シャトー・マルゴーの熱狂的ファンとして有名なアーネスト・ヘミングウェイです。

葛飾北斎が人生で99回引っ越しをしたなら、ヘミングウェイは99回も死にそうになりました。

釣りが大好きなヘミングウェイが海で釣り上げた鮫をピストルで撃とうとして自分の脚を打ち抜いたり、船が2回も座礁して沈没の危機に遭ったり、山へ鹿狩りに出かけた際は、乗っていた自動車が木に正面衝突して骨折したり、山火事に遭ったり、極め付きは、ノーベル文学賞の知らせを聞いたあとの1954年、アフリカのコンゴで2日連続で飛行機が墜落しました。初日は、離陸直後に飛行機が電線に接触して墜落。翌日は、飛行機が火災を起こして地表に激突しました。

新聞が一斉に「ヘミングウェイ、死す」の記事を掲載するほどの大事故で、どちらの事故でも一命を取り留めたものの、深刻な後遺症のためノーベル賞の授賞式は欠席せざるを得ませんでした。

山、海、空と、大自然の中で万遍なく死にそうになったヘミングウェイ。都会でも災難は続き、バーで酔ってトイレに入ったときに、水を流そうとして間違った紐を引き、天窓が落ちて頭に直撃したりと散々です。

簡潔で無骨な文体で「ハードボイルド小説の父」といわれ、フローズン・ダイキリ、モヒート、マティーニみたいなマッチョなカクテルを好んだヘミングウェイですが、実は、エレガントなものが大好きでした。ワインは、シャトー・マルゴーの熱狂的なファンで、シャトーを訪問して宿泊したほどです。

孫娘に「シャトー・マルゴーのようにエレガントで華麗な女性になるように」と願って、マルゴーと名付けたのは有名な話ですね。マルゴーは、英語ではマーゴ。この孫娘は、モデルにして女優のマーゴ・ヘミングウェイ(妹はマリエル・ヘミングウェイ)です。

ヘミングウェイは、飛行機の墜落事故の後、男臭さが少し減少したそうです。結局、鬱病のため、もうすぐ62歳の誕生日を迎える1961年7月2日、ライフル銃で自死します。

孫娘のマーゴ・ヘミングウェイにも、同じようにスタイリッシュな不幸は付きまといます。名前の効果でしょう。

マーゴはモデルと女優で成功しましたが、2度の離婚とアルコール中毒を経て、薬物で自死します。享年42。亡くなったのが、ヘミングウェイと同じ7月2日だったのは偶然ではない気がします。

高貴な哀しみでは、生産者も負けてはいません。今でこそ「ボルドーの女王」と称えられているシャトー・マルゴーですが、1962年から1977年まで、1級格付けシャトーなのに、高貴で凛とした面影はなく、提灯や傘貼りをして飢えをしのぐ浪人のように落ちぶれました。

アンドレ・メンツェロプーロスと娘のコリーヌ(マルゴーのウェブサイトより)

これを救ったのが、ギリシャ人の新オーナー、アンドレ・メンツェロプーロスで、伝説の醸造研究者、エミール・ペイノーをコンサルタントに迎え、老舗が奇跡の復活を遂げました。

ただし、メンツェロプーロスは、自分が当主になってから造った初ワインを飲むことなく1980年、65歳で世を去ります。その後、娘のコリーヌが跡を継ぎ、父の遺志も継いでいます。

日本人は、おめでたい話が続く「太閤記」が好きですが、もっと大好きなのが、「潔い悲しみ」がたっぷり詰まった「忠臣蔵」でしょう。なんのかんのいっても、「日本人は、悲劇とパスタを好み、喜劇とチーズが苦手」だと思います。

特に、高貴で薄幸の美女は、世界中の人を引き付けて離しません。バレエでも、『ドン・キホーテ』に登場する陽気なキトリより、チャイコフスキーの『白鳥の湖』のオデット姫のような「エレガントな悲哀」を美しいと思います。

5大シャトーの中のオデット姫がシャトー・マルゴー。豪快に見えて実は繊細だったヘミングウェイがマルゴーを愛したのはそのためでしょう。

『老人と海』は170ページの中編小説。朗読では約2時間。『白鳥の湖』の上演時間もほぼ2時間。二人でシャトー・マルゴーをゆっくり飲むのにちょうどいい時間ですね。

アルベール・カミュがボージョレを飲んだ理由

アメリカ文学を代表する人気作家がヘミングウェイなら、フランスは「不条理」が看板のアルベール・カミュでしょう。カミュも、44歳の若さでノーベル文学賞を受賞し、さあこらからという46歳で交通事故死しました。

私が高校に入学して最初の授業が古文で、古文の先生が開口一番、「若く死んだ作家は、いつまでも若いんですよ」と言ったのを今でも鮮明に覚えています。新聞や雑誌で作家を紹介する場合、最晩年の写真を載せるのが通例です。35歳で睡眠薬自殺した芥川龍之介の写真は、今から切腹する若侍のような繊細な緊張感があり、88歳で衰弱死した志賀直哉は、老人ホームの最年長入居者の雰囲気があります。

日本の「夭折した人気作家」の代表が芥川なら、フランスは芥川と同じく懐に狂気を呑んでいたアルベール・カミュでしょう。カミュは、意外にブルゴーニュワインと深い関係にありました。

1913年11月7日、カミュは、フランス領アルジェリアのモンドビ村(現在のドレアン)の貧しい家庭に生まれます。父はフランスへ輸出するワインを造る会社でブドウ畑の手入れをしていました。

畑の所在地はボーヌで、ブルゴーニュワインの銘醸地、ボーヌと同じ名前ですが、寒冷地仕様で色白の痩せた北欧美女的な高級ワインを造る本家のボーヌとは逆に、アルジェリアのボーヌは、陽光をたっぷり浴びた南方系。陽に焼けた象の尻のように、どっしりしてシンプルな廉価版のワインだったでしょう。

父は、カミュ誕生の翌年、第一次世界大戦で戦死し、聴覚が不自由で文盲の母に育てられて、ノーベル賞を受賞するまでになります。母親の苦労は大変だったでしょう。

日本の小説で、誰でも知っている出だしが、夏目漱石の「吾輩は猫である。名前はまだない」なら、海外小説の「有名イントロ」の1位は、カミュの代表作『異邦人』の「今日、ママンが死んだ」で決まりですね。

カミュと聞けば、自動的に「不条理」を連想します。不条理とは、要は「説明がつかない」ということで、『異邦人』の主人公、ムルソーが裁判で「なぜ人殺しをしたのか?」と聞かれ、「太陽が眩しかったから」と意味不明の動機を述べたことが好例です。このフレーズは非常に有名で、いろいろなパロディーが生まれました。

ワイン愛好家はお気づきのように、『異邦人』の主人公の名前のムルソーは、ブルゴーニュで「伯爵夫人」のように高貴な極上の白を造る村と同じ名前です。

本名の「カミュ」は、日本なら「鈴木」のように、フランスではマルタンの次に多い姓。そんな平凡を嫌い、個性的な「ムルソー」にしたのでしょうが、姓としてはかなり特殊で強引で、ブルゴーニュの村を意識したとしか思えません。

カミュは、ノーベル賞の賞金でプロヴァンスのルールマラン村に家を買い、車で780キロ先のパリまで行き来しました。陽光溢れるこの村では、コート・デュ・リュベロン(赤、ロゼ、白があります)という廉価版ワインを造っています。

この村に家を買ったのは、気候とワインが故郷のアルジェリアのモンドビ村に似ていたことと、真南にまっすぐ600km下ると、モンドビ村にぶつかるためでしょう。ルールマラン村とモンドビ村の間には地中海だけで島はありません。ルールマラン村の家から南の地中海を見るたびに、「この方向にずっと南へ行けば故郷がある」と思ったことでしょう。

1960年1月4日、今は生産していないフランスの超高級車、ファセル社のヴェガに乗り、ルールマラン村からパリへ向かいます。運転するのは、日本の岩波書店的な大手出版社、ガリマール書店を創業したガストン・ガリマールの甥、ミシェル・ガリマール。

ブルゴーニュを北上しムルソー、ボーヌを抜けた直後、タイヤがパンクし、道端の街路樹に激突。カミュは即死します。享年46。

カミュが直前の昼食で飲んだのはボージョレのフルーリーでした。カミュは、このフルーリーにブーダン・ノワール(豚の血のソーセージ)を合わせたそうです。

ブルゴーニュは、赤のロマネ・コンティ、白のモンラッシェという、赤白の両分野で最高価格のワインを造り、物凄く威張っています。赤は、ピノ・ノワール、白はシャルドネという「貴族の葡萄」で造るのですが、同じブルゴーニュでも、はるか南のボージョレ地方では、ガメイという「苦学生」のような品種を使います。

ガメイは、若いうちに飲むと、ショートケーキの上のサクランボのように甘くて垢抜けない風味があります。ボージョレが1本3千円前後と安価で、「ブルゴーニュの醜いアヒルの子」と揶揄されるのはそんな事情があるためでしょう。カミュが「最後の晩餐」で飲んだフルーリーも、そんな香りがしたと思います。

ただし、ボージョレには誇りと意地がジェロボアム・ボトル分、詰まっています。ボージョレを30年ほど熟成させると、華麗なワインに変身し、ピノ・ノワールで造った極上のブルゴーニュと見分けがつきません。醜いアヒルの子が、『白鳥の湖』のオデット姫に大変身。文盲の母に育てられた少年が、ノーベル文学賞を受賞するのです。

カミュは高貴な白ワイン、ムルソーに憧れて主人公の名前にしながらも、生まれ故郷のように陽光に溢れて大衆的なワインを造るボージョレを好んだのは、そんな事情があるように思えてなりません。

『異邦人』は140ページほどの中編小説です。朗読だと2時間ほどでしょう。カミュが最後の晩餐で飲んだフルーリーを二人でゆっくり飲むのにピッタリですね。

機会があれば、30年ほど寝かせたクリュ・ボージョレの古酒を飲んでいただければと思います。コート・ド・ニュイの特級の味わいがあり、カミュが60歳まで生きていたとしたら、こんな小説を書いただろうと思い描けるはずです。

藤田嗣治とG.H.マム

パリに行った日本人の芸術家は、パリが気に入って住み着く人と、どうしても馴染めずに帰国する二通りに分かれるそうです。日本を代表する洋画家、藤田嗣治はその両方で、パリと東京を行ったり来たりした「振り子症候群」に罹ってしまいました。

高校球児が甲子園を目指し、コンピュータ技術者がシリコン・バレーへ向かうように、藤田はパリへ吸い寄せられます。パリでは貧乏画家が大量に住むモンパルナスに居を構えました。隣の部屋には、アル中にして史上最高のイケメン画家、アメディオ・モディリアーニが住んでいました。

当時の日本では、モネ、ルノアール、ゴッホが描く印象派の絵こそが洋画であり、政治家にして画壇の大重鎮、黒田清輝を中心にほとんどの画家が明るくて健全で生活感あふれる人物像や風景画を描いていました。

一方、パリでは、目玉が3個もあるピカソのキュビスムや、「手術台の上でミシンとコウモリ傘が出会った」みたいな意外な組み合わせのシュールレアリスムが台頭していて、藤田は驚いたそうです。

日本酒ばかり飲んでいた人が、シャトー・マルゴーやムルソーを飲んでビックリする感じでしょうか。藤田は「黒田清輝方式」を捨て、「藤田流」を模索します。

黒田清輝の代表作『湖畔』

4~5年間の極貧生活の後、藤田のトレードマークである「乳白色の肌」を発明し、評論家の高評価を得て、絵が高値で売れるようになります。フランスでは藤田を知らない人はいません。

この大成功を背負って、南アメリカ経由で日本へ凱旋帰国したのですが、パリで成功した藤田への嫉妬、プラス、奔放な女性関係と悪趣味的な奇行のため、日本の画壇は藤田に冷たく接します。藤田の天敵であり、日本の洋画界の大重鎮であり、江戸の武士のように折り目正しい黒田清輝が藤田を嫌悪しました。

藤田は、失意のうちにパリへ戻りますが、第二次世界大戦の勃発で政治的に再び日本へ帰らざるを得なくなります。

パリだけでなくフランス中で超有名人だし、自分はフランス人だと思っていたのに、フランス人から見ればどうしようもなく「異邦人」であり日本人だったのです。

戦時中、藤田は陸軍の要請で何枚も戦争画を描きます。例えば、畳3枚の巨大な絵、『アッツ島玉砕(東京国立近代美術館)』には、無数の戦死者が圧倒的な画力で描いてあり、真夜中に見ると失神するほどの迫力があります。

これが裏目に出て、戦後、藤田は「戦争画を描いて軍部に迎合した」と強烈なバッシングを受けます。「愛する日本から嫌われた」と渡仏して日本と絶縁。フランス国籍取得し、藤田からフジタとなります。

ロイド眼鏡とおかっぱ頭のフジタは、左手首に腕時計のタトゥー(長針と単身が重なっているので8時44分?)を彫っていました。時間を大切にするためらしいのですが、夜が遅いので帰ろうとする女性へ「まだ、早いよ」と「時計」で口説いたそうです。

女性関係は派手で、登美子、フェルナンド、ユキ、マドレーヌ、君代と日本人・フランス人女性と交互に5回結婚しました(正確には、ユキはフランス人です)。

奇行も重ねたため、『水滸伝』の豪傑のような大酒飲みを想像しますが、実際は酒が飲めず、酔ったふりをしていたそうで、哀れさを感じます。ワインを飲めないフジタが唯一、本気で愛したワインがG.H.マム社のシャンパーニュでした。

マム社のラルー社長は、敬愛するフジタを強力に援助します。日本の会社は、景気が悪くなると文化事業をあっさり止めてしまいますが、昔のパトロンには、「芸術の守護神」との使命感があり、ラルー社長は命をかけてフジタの衣食住を支えました。

1959年、日本を完全に捨て尊敬するレオナルド・ダ・ヴィンチの名前を取って、レオナール・フジタとしてクリスチャンになるべくランス大聖堂で洗礼を受けました。この時のゴッドファーザーは、G.H.マムのルネ・ラルー社長が務めました(ゴッドマザーは、フジタより45歳も若いベアトリス・テタンジェで、ベアトリスの異母弟が、テタンジェ社の先代当主、クロードです)。

ラルー社長は、クリスチャンになったフジタのため、マム社の隣に礼拝堂、ノートル・ダム・ド・ラ・ぺを建てました。もうすぐ80歳のフジタはこのチャペルの壁一面にフレスコ画法で宗教画を描きます。フレスコ画法は、塗った漆喰が乾く前に絵を描く「時間と湿気との戦い」で、これで命を削ったフジタは81歳で他界しました。

フジタのために建てた礼拝堂(マム社のウェブサイトより)

礼拝堂だけでなくマム社のコルドン・ロゼのミュズレ(コルクを押さえる金属キャップ)にもフジタの絵があります。この薔薇は、フジタの『La Petite Fille a la Rose(バラの花と女の子)』という作品から取ったものです。このボトルがエリゼ宮に初登場した時、フジタのサインをもらうために、招待客は空ボトルを欲しがったといいます。

愛する日本に受け入れられず、でもフランス人にはなり切れず、日本人とフランス人女性を交互に妻とし、酒が飲めないのに飲めるふりをする……。身体だけでなく気持ちも日本とフランスの間を振り子のように揺れました。

1番大きな揺れは名前でしょう。フジタは次男だったことから、嗣治の父は、「つぐじ」と呼んでいましたが、「画家として成功したら『つぐはる』を名乗るように」といわれたため、パリで成功した後は「つぐはる」になります。絵に入れたサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りありますし、フランスに帰化した後の名前も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の間で揺れました。

フランスに帰化してからも、日本を含め、あらゆる土地で「異邦人」として揺れたフジタの切なさがマムの薔薇の絵から滲み出ています。

ロマンス映画の最高峰、『カサブランカ』で、ハンフリー・ボガードが「君の瞳に乾杯」と言いながらイングリッド・バーグマンと飲んだのは、マム社のコルドン・ルージュ。

コルドン・ルージュを飲みながら『カサブランカ』を見てほのぼのした後は、フジタの絵を見ながら、切ない気持ちでロゼを飲みたいですね。