エドシックは、最も古いシャンパーニュのメゾンの一つで、その歴史は1785年まで遡ります。
ドイツ人羊毛商、フロレンツ・ルードウィッヒ・エドシックが、シャンパーニュ地方の中心都市ランスを訪れた際、同じ羊毛商のニコラ・ペルトワと仲良くなり、1785年にペルトワの娘と結婚(勢力拡大のための政略結婚ですね。ヴーヴ・クリコもそうでした)。ランスを本拠地として、織物とシャンパーニュの事業を始めます。名前も、フランス風にフローレンス=ルイ・エドシックに改名しました。
1785年は、日本の天明五年で、日本史の教科書に出てくる田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中だった頃。世界最古の日刊新聞、イギリスの『タイムズ』が創刊された大昔です。
その後、フローレンスの息子が二代目として跡を継ぎますが、若死にしてしまいました。次に、ドイツにいた3人のフローレンスの甥が事業を継ぐことになりました。しかし3人は聡明でしたが自己主張が強く、結局「パイパー・エドシック」「シャルル・エドシック」「エドシック・モノポール」に分裂。1834年のことでした。
今回は、この三つの中からエドシックの筆頭格のパイパー・エドシックを取り上げます。
パイパー・エドシックには、フランス王妃マリー・アントワネット、銀幕の女王マリリン・モンロー、ファッション界の鬼才ジャンポール・ゴルチエ、宝飾の王女ロール・イザベル・メレリオが深く関係しています。
目次
マリー・アントワネットへ献上
初代のフローレンス=ルイ・エドシックは、フランスのサロン文化に強い憧れがあり、当時のフランス王妃、マリー・アントワネットの大ファンでした。
フローレンスは、「王妃にふさわしいシャンパーニュを造る(réussir une cuvée digne d’une reine)」との信念があり、最初に造ったシャンパーニュ「フローレンス・ルイ」の第1号をマリー・アントワネットへ献上します。
その様子を描いた絵がパイパー・エドシック家に残っています。説明によると、1789年5月6日、プチ・トリアノン宮殿で献上した様子を描いたそうです。
フランス革命で民衆がバスチーユ監獄を襲撃したのが7月14日ですから、2ヵ月前の動乱の時期、導火線があと2cmしか残っていない頃ですね。
パイパー・エドシック家がこの絵を所蔵していることや、ボトルのラベルが完全にこちら側を向いいること、ラベルの細かい文字まできちんと描いてあることから、エドシック家が描かせたものだと思います。記念写真の代わりですね。
ティアラのついたシャンパーニュ
あらゆるシャンパーニュの中で、「驚くべき仕掛けがある」とみんなが物凄くビックリするのがパイパー・エドシック社の最高級版、ラール(レア)です。マリー・アントワネット王妃のDNAをきちんと引き継いでいます。
パイパー・エドシック社の最高級品「ラール」
写真で「ラール」を見ただけでは分からないのですが、このボトルの下部、3分の1に見える「金色の豪華な飾り」が、その「ビックリする仕掛け」です。
これは、金色のエナメルで描いたのではなく、厚さ0.5mmの金属で作った本物のティアラを貼り付けたものです。接着剤でがっちりで貼り付けてあるので、カッターナイフを使ってそーっと丁寧に剥がすと、マリー・アントワネット王妃のティアラが現れます(赤いリボンをつけると、それらしくなります)。
実は、本物のティアラになっている
ワイン会に持って行けば参加者全員、特に女子は、「えっ、なにこれ!」と、ワイン会は大騒動になります。続いて、一人ずつティアラを髪につけて「私、マリー・アントワネット王妃よ」と微笑みながら、必ず写真を撮ります。その写真をFacebookやInstagramにアップするのがお約束。女子が多いワイン会では、これ1本で物凄く盛り上がります。私の経験上、このシャンパーニュほど、女子が喜んだボトルは1本もありません。是非、お試しください。
なお、「ラール」のネック部の「赤いリング」も取り外しできますが、指輪にしては少し大きいので、スカーフを襟元でまとめるリングに使うのが良いかもです。
「ラール」は文字通り、「稀少性の高い泡」です。初ヴィンテージは1976年で、以降、1979年、1985年、1988年、1990年、1998年、1999年、2002年、2006年、2007年(ロゼ)、2008年しか出ていません。43年間で11ヴィンテージだけ。希少価値が高く、マリー・アントワネット王妃のように高貴で豪華なシャンパーニュです。
ちなみに、マリー・アントワネット王妃は、「食べ物がない」と宮殿に押し掛けた民衆に、「パンがないならケーキをお食べ」と言ったと伝わっています。これを聞いた私は、「ケーキは嫌いではないけれど、朝から食べたいとは思わないなぁ」と考えたのですが、正確には「S’ils n’ont pas de pain, qu’ils mangent de la brioche」で、「ケーキ」ではなく「ブリオッシュ」です。この仏語を翻訳した当時、ブリオッシュは一般的な言葉ではなく、苦肉の策で「ケーキ」と訳したそうです。
牛乳、バター、卵をたっぷり使った香ばしいパンがブリオッシュで「これなら、是非、朝食で食べたい」と思います。なお、マリー・アントワネットの「パンがなければ……」の言葉は、本人が言ったものではなく、後世の創作であることが分かっています。
「赤いダッシュ」のつながり
パイパー・エドシック社のウェブサイトのトップ・ページにある「赤いダッシュ」
マリー・アントワネットへシャンパーニュを献上した際の絵のラベルを拡大すると、赤い線が見えます。これが今のエドシックで、「Dash of Seduction」と呼び、「人を誘惑して引き付ける赤い横線」として、同社の永遠のテーマになっています。
同社のウェブ・サイトのトップ画面にも男女の真ん中に「赤いダッシュ」がありますね。日本の「赤い糸」と同じ感覚でしょう。
「赤いダッシュ」によって、エドシックは音楽、美食、ファッション、旅行、宝飾など、いろいろなものとガッチリ繋がることになりました。
マリリン・モンローの御用達
パイパー・エドシック社の「赤いダッシュ」は、映画界とも強く結びついています。
例えば、「20世紀を代表するセクシー・シンボル」だったマリリン・モンローはパイパー・エドシックの大ファンでした。
濃厚過ぎず軽すぎない絶妙なバランスと、華やかな香りが気に入ったのでしょう。また、エドシックのシャンパーニュは、クリュッグのようにマロラクティック発酵をさせず、キリっとした爽やかな酸味を残しているのが特徴です。
そんなパイパー・エドシックに魅せられたマリリン・モンローは、「寝る時にはシャネルの5番を着て、朝、目が覚めたらパイパー・エドシックを飲むの」と言ったとか。伝説の女優に相応しい言葉ですね。
パイパー・エドシック社は、映画とのコラボレーションにも力を入れていて、1993年から、国際映画祭の最高峰で毎年5月にコート・ダジュールで開くカンヌ映画祭の公式シャンパーニュになっています。
「エドシックの赤いラベル」と「セレブ達が歩くレッド・カーペット」は「赤いダッシュ」で繋がっているのです。
ダイヤモンドをあしらったシャンパーニュ
ヴァン・クリーフ・アーペルがデザインしたラールの全景
「マリー・アントワネット王妃にふさわしいシャンパーニュを造る」というパイパー・エドシック社の方針は1mmも揺らぎません。同社の最高級版、ラールが、宝飾界の最高峰、ヴァン・クリーフ&アーペルと合体したのです。
パイパー・エドシック社の創立200周年となる1985年。それを記念してラールの初ヴィンテージ、1976年物のオリジナルのラベルをもとに、ヴァン・クリーフ・アーペルがデザインしたというより、少し手を入れました。
コルクを包むフォイルの部分を金のメッシュに換えました。通常、フォイルは糊で封をするのですが、この特別版では、ダイアモンドでボトルに留めています。肩ラベルの「RARE」もダイアモンドで縁取りし、メインラベルの金色の縁取りの中で輝いているのもダイアモンドです。
もちろん、非売品ですが、当時の価格は軽く100万フランを越え、2,000万円ほどだったとのことです。
老舗宝飾店とのコラボレーション
「マリー・アントワネットのDNA」は、ティアラ、ダイアモンドを経て、高級ジュエリーに続きます。これが、ラール1997年のマグナムを使った特別版、ラール・ル・スクレ(Rare le Secret)で、「ラールの秘密」の意味です。
フランス歴代の王室に宝石を納めてきた老舗宝飾店、「メレリオ・ディ・メレー(Mellerio dits Meller)」と、パイパー・エドシック社のコラボレーションにより実現しました。両者の共通点が、マリー・アントワネットです。
マリー・アントワネットに献上されたメレリオのガーネットブレスレットパイパー・エドシック社のウェブ・サイトより
メレリオ家は、1870年、マリー・アントワネットにガーネットをちりばめ七つのカメオがあるブレスレットを献上しました(ブレスレットは、現在、メレリオ家が所蔵しています)。対してエドシック家は、初代が王妃に最初のシャンパーニュを献上。両家は、マリー・アントワネットで繋がっていますね。
パイパー・エドシックの最高醸造責任者、レジス・カミュと、メレリオの宝石デザイナー、ロール・イザベル・メレリオの2人のコラボレーションで実現したのが「ハイ・ジュエリー・エディション」と「ゴールドスミス・エディション」の二つです。
ハイ・ジュエリー・エディション
ダイアモンド、サファイア、エメラルド、ルビーの4バージョンパイパー・エドシック社のウェブサイトから
4種類のボトルがあり、サファイア、ダイアモンド、ルビー、エメラルドの4種類の宝石を贅沢にあしらったものです。1985年に発表したヴァン・クリーフ&アーペル版は非売品でしたが、このハイ・ジュエリーは1本300万円だとか。
エメラルドの拡大写真
ルビーの拡大写真
ゴールドスミス・エディション
ラール・レ・スクレのゴールドスミス・エディションのラベル
ハイ・ジュエリー・エディションの4種類の他に、メレリオとのコラボレーションがゴールドスミス・エディションデス。
ゴールドスミスは「金細工師」の意味で(英語圏のファミリー・ネームによくある「スミス」は、日本語なら「鍛治」さんです)、その名の通り、ラベルが紙ではなく、コルクを押さえる金属の蓋もすべて24金でできています。
1,000本限定で、ラベルにはエディション番号が入るそうです。ちなみに、価格は1本10万円とのこと。
パイパー・エドシックの変化球
「高貴で優雅」だけがパイパー・エドシックのモットーではありません。遊び心がたっぷりの「キュヴェ・スペシアール」には、センスのいい人が少しだけ線を踏み外したような「趣味のいい人のプチ悪趣味」というか「少し毒のある高貴さ」があります。私のような「ひねくれた性格」の人間には、そんな変化球にセンスの良さを感じます。
期間限定で発売するので、店に並んでいるうちに買わないと、2回目のチャンスはありません。ご注意を。
このシリーズに登場するのが、ジャンポール・ゴルティエとクリスチャン・ルブタンです。どちらも、「曲者」ですね。
ジャンポール・ゴルティエ・エディション(1999年)
キュヴェ・スペシアールの記念すべき第1作が、1999年に発表されたファッション界の鬼才、ジャンポール・ゴルティエがデザインしたシャンパーニュです。「世界で最も官能的なボトル」がこれでしょう。
ジャンポール・ゴルティエ・エディションの表と裏
「ジャンポール・ゴルティエ」は、正面から撮影した写真を見る限り、ただ、エドシックのテーマ・カラーである赤いエナメルのジャケットを着ているだけ。何の面白みもなさそうですが、このシャンパーニュの裏側を見ると、これが「世界で最も官能的なボトル」であることが分かります(「仕掛けが大好き」というDNAは、ラールのティアラから引き継いだものでしょう)。
赤いジャケットの裏は、背中がパックリ開いて、ボンデージ風に黒い紐で綴じてあります。正面からボトルを見ると貞節な淑女ですが、反対側は淫靡で妖艶な世界。
ジャンポール・ゴルティエは、鬼才にして異才、ジョン・ウィリーの手になるボンデージの古典的雑誌、『ビザール』に触発され、この道に目覚めたとか。その勢いでこのボトルをデザインしたそうです。
このシャンパーニュは、赤いジャケットの背中の隙間から水が入るので、物凄く冷やしにくいし、サーヴィングも大変ですね。でも、そんなことで文句をいうようでは、これを飲む資格はありません。
これまで10回近く飲みましたが、刺激的な外見に似合わず、香りは爽やかで甘さを感じました。熟したリンゴの味わいがあり、キレイに造ったシャンパーニュだと思いました。官能的なボトルと、正統的な味わいのギャップが堪りません。
クリスチャン・ルブタン・エディション(2009年)
2009年にパイパー・エドシック社が発表したのは、正確にはシャンパーニュではなく、グラスでした。
超高級婦人靴デザイナーの鬼才、クリスチャン・ルブタンがデザインしたもので、ただの靴ではなく、シンデレラのようなガラスの靴です(靴の裏は、エドシックのテーマ・カラーの赤を使っていますね)。
ただし、シンデレラが忘れたガラスの靴みたいに初々しくて清楚なものではなく、5インチの官能的なピン・ヒールでした。作品名は「Le Rituel」で「儀式」です。
クリスチャン・ルブタンがデザインしたガラスのグラス
ジャンポール・ゴルチエのデザインによる真っ赤なボンデージ系ジャケットに入ったシャンパーニュの後継がこれでしょう。中世のヨーロッパの貴族のお遊びが「美女の脱ぎたての靴でシャンパーニュを飲む」で、それをモチーフにしています。
私なら、「靴をどの角度で持てば、シャンパーニュが最もたくさん入るんだろう?」とか「これを履くと、歩きにくいだろうなぁ」と考えますが、そんな野暮ったいことを考える人は、この靴に似合いません。立てたまま、つま先に注いでもらい、踵から飲むのが「変化球の正統的な飲み方」かと思います。
ジャンポール・ゴルティエ・エディションその2(2011年)
1999年に発表したジャンポール・ゴルティエのキュヴェ・スペシアールが大好評だったため、第2作目が出ました。
それが「フレンチ・カンカン」で、今度は網タイツを履かせました。
網タイツを履かせたフレンチ・カンカン
「高貴」であり、「エクストラヴァガンザ(常軌を逸した独自性)」を併せ持った、パイパー・エドシックの本領発揮ですね。
次世代のパイパー・エドシック
2018年まで最高醸造責任者のレジス・カミュ
「ラール」や「キュヴェ・スペシアール」だけでなく、ヴァン・クリーフ&アーペル、メレリオ、ジャンポール・ゴルティエ、クリスチャン・ルブタンとのコラボレーションにより、「マリー・アントワネットのDNA」を正しく引き継いできたのが、「伝説の最高醸造責任者(シェフ・ド・カーヴ)」としてシャンパーニュの人々から尊敬を一身に集めているレジス・カミュ。
何度かインタビューしたことがありますが、190cmの大男ながら、物腰の柔らかい紳士でした。非常に真面目な性格で、ジャンポール・ゴルティエ、クリスチャン・ルブタンと繋がったことがとても不思議に思いました。
2018年から最高醸造責任者となったエミリアン・ブティヤ
レジス・カミュは2018年9月に引退し、新しい最高醸造責任者として、エミリアン・ブティアが就任しました。「マリー・アントワネットのDNA」を引き継ぎながら、環境保全のため、サステイナブル農法を取り入れるとか。どのように変わるか、目が離せませんね。