日本で一番詳しい「1855年メドック格付け」の裏側

ボルドー地方では、10,000を越える生産者が畑を所有してブドウを育て、ワインを造っています。その頂点に君臨するエリート集団が「1855年メドック格付けシャトー」の61シャトー。

世界中のワイン愛好家の中には、「1855年メドック格付け」を暗記している人が少なくありません。

日本は高級ワイン生産の中心地、フランスから見ると地球の反対側にあります。その日本に、ソムリエ協会が設立され、2018年現在では同協会が認定する「ソムリエ」と「ワイン・エキスパート」の有資格者の総数はそれぞれ31,811人、15,575人もいます。この資格の勉強で、最初に暗記するのが「1855年メドック格付け」の61シャトーでしょう。

実は、1855年の制定当初は57シャトーでした。シャトーが分裂したり、吸収合併したりで現在では61シャトーになりました。その経緯を実際の格付け文書と一緒に見ていきましょう。

格付けのきっかけ

1851年、第1回の万国博覧会がロンドンで開催され、大成功を収めます。特に、イギリスがガラスで作ったパビリオン「水晶宮」を見て世界中の人々が驚きました。

第2回万博は1855年にパリで開くことになります。イギリスに異常な対抗意識を燃やしたフランスは、イギリスにないワインで世界にアピールしようとしました。

当時、既にフランスのワインは世界中で有名でしたが、海外の美食家から「どれが上質なワインかよく分からない」とのクレームを受けていました。そこでナポレオン3世は「世界から万博に来る観光客用に分かりやすい指標を作れ」とボルドー商工会議所に命じます。

ボルドー商工会議所はジロンド河の左岸のワインを扱い、ポムロルやサンテミリオンの「右岸系ワイン」は担当していなかったため、1855年の格付けに右岸が入っていないそうです(諸説あり)。

いずれにせよ、当時の「1855年の格付け」は雑誌の『別冊付録おいしいワインの早わかり』のような「軽いもの」でした。

商工会議所はボルドーのシャトーに通達を出し「サンプルとしてボトルを6本送るよう」依頼しました。

しかし、大人数で試飲するには6本では足りませんし、サンプルを出さないシャトーもありました。面倒になった商工会議所は、1855年4月5日、ボルドーワインを熟知している仲買人組合に「五つの級に格付けせよ」と丸投げするのです。

最初の格付け

本来なら、仲買人達が一堂に会し、試飲して格付けを決めるところですが、試飲する時間がありませんし、ワインのような嗜好品の「好き嫌い」に優劣をつけて一つにまとめるには、数年かかりそうです。仲買人達も、この格付けを物凄く気楽に考えていましたし「忙しい最中に、面倒なことを言ってきた」と思ったことでしょう。

そうして仲買人の一人(当時の大手仲買人、ロートン家の3代目当主、エドワード・ロートンと言われています)が、自分の試飲経験とワインの1樽の価格(仲買人によって価格が違いますので、ロートン家での平均的な取引価格だったと思われます)だけを考慮し、2週間足らずで決めました(4月5日に、ボルドー商工会議所から格付け依頼の手紙を受け取り、4月18日に回答しています)。

東京には、フレンチレストランだけで1万軒以上あり、ミシュランで星を獲得した店も250を越えています。この中から「自分好みのトップ60」を仕事の合間に選ぶのにかかる時間がこれぐらいでしょう。

1855年の格付け文書の実物

下記の5枚の写真がオリジナルの格付けの文章です。作成は下記の写真①の第1行目にもあるように、1855年4月18日。

写真①「1855年メドック格付け文書の第1ページ(主文)」最上段の右に、「1855年4月18日」の記述あり。

1樽(958リットル)あたりの価格が3,000フラン以上を1級、2,500から2,700フランが2級、2,100から2,400フランが3級、1,800から2,100フランが4級、1,400から1,600フランを5級としていることが下記の写真②からわかります。

写真②「1855年メドック格付け文書の第2ページ」

上記の内容を翻訳したものが以下のとおりです。

拝啓

今月5日の貴組合からの書簡にて、ジロンド地方のワインの格付けの依頼を受けたことを非常に栄誉と思っております。

貴組合のご要望に応えるべく、様々な詳細情報を検討し、添付の一覧表を作成いたしました。

貴組合もご存知のように、格付けは、非常に微妙で繊細な事案であるため、我々としての公式の見解ではありません。本格付けは、現在、入手しうる限りの情報をもとにした参考意見として、ご査収いただけましたら幸いです。

書簡でのご要望の格付けをする上で、一樽あたりの価格が3,000フランのものを1級といたしました。

2級は、価格が  2,500 から 2,700

3級 — 同上 — 2,100 から 2,400

4級 — 同上 — 1,800 から 2,100

5級 — 同上 — 1,400 から 1,600.

敬具

この格付け文書では、価格の順番にシャトー名を並べています。高価格が高ランクとの認識ですね。1級の四つのシャトーの中で最高価格がラフィットだったため、現在でも、1級シャトーを並べるとき、ラフィットが筆頭シャトーとして威張っています。

下記の写真③の「1級格付け」では、上からラフィット、マルゴー、ラトゥール、オー・ブリオンの順になっています(この表は、左から、「シャトー名」「地区」「所有者」の順です)。

写真③「1855年メドック格付け文書の第3ページ」1級(Premiers Crus)と2級(Seconds Crus = Deuxièmes Crus)

写真④「1855年メドック格付け文書の第4ページ」3級(Troisièmes Crus)と4級(Quatrièmes Crus)の一部

写真⑤「1855年メドック格付け文書の第5ページ」4級(Quatrièmes Crus)の残りと5級(Cinquièmes Crus)最終行に横線を引いて「カントメルル」を追記してある。

上記をもとに1855年当時のシャトー名称、現在の名称、変更点などを比較すると以下のような発見がありました。

・名前に「シャトー」が付いている生産者と付いていない生産者がある。

・この文書は全部で5ページで、現代なら5枚の紙に書けるが、この文書では裏にも書いてあるため紙は全部で3枚。第1ページの中央右にある大きな空白を見ると、第2ページに書いた3,000、2,700などの数字が鏡文字で透けて見える。このあたりからも、あまり真剣に格付けを決めていない雰囲気を感じる。

・現代のワインの文献での格付け表記は級ごとに分け、同じ級の中はサンテステフ村、ポイヤック村、サン・ジュリアン村と、北から南の順番に書くが、原文を見ると、価格の順番になっているのが分かる。2級の先頭がムートン。もし、ムートンが2級の2番手か3番手なら、どれだけ政治力を尽くしても、1級へ昇格はできなかったと思われる。

・2級の格付けは、現在ではフランス語で「Deuxièmes Crus」と表記する。主文(写真②の中段、2,700 – 2,500と書いた行の先頭)には、そのように書いてあるが、格付け表(写真③の真ん中の大きな文字)では「Seconds Crus」になっている。

「Deuxièmes」と「Seconds」の違いは「Secondsは、全部で二つしかない物の2番目で、例えば、建物が2棟しかない場合の『第2棟』のことで、それ以上はないことを示す。一方、Deuxièmesは、3番目以降も続く場合に使う」。ワープロがある現代では簡単に書き直せるが、手書きの当時では「間違ったけど、まあいいか」と思ったのかもしれない。ここからも「あぁ、面倒だ」の気持ちが伺える。

格付けの変更

メドックの格付けシャトーの数は、以下の経緯で「57」から「61」になりました。

1.1855年4月18日

最初の制定では、57シャトーが選ばれました。

メドック地区から56シャトー、グラーヴ地区から1シャトー(オー・ブリオン)を選び、五つの級に格付けしました。

2.1856年の追加

カントメルルが加わります。写真⑤の一番下にある丸いスタンプの少し上に太い横線が引いてあり、そこにカントメルルが「書くのを忘れていました」という感じで、以下のように追加されているのが分かります。

Cantemerle    Mme de Villeneuve Durfort  Macau

オリジナルはプロの祐筆がカリグラフィーで書いたものですが、この「追記」は素人の筆ですし、記載の順番が「シャトー名」「地区名」「所有者名」ではなく、「シャトー名」「所有者名」「地区名」になっています。

カントメルルに気の毒な書き方ですが、これで、57 + 1 = 58になりました。

カントメルルがなぜ、翌年に追加されたのか?記入漏れなのか、何かの政治的な配慮か、明確には分かりませんでした(同シャトーは通常の仲買人の流通経路を通らずにビジネスをしていたからとか、「理由は不明」と明記したという説もあります)。

3.消えたシャトー

シャトー・ドゥビニョンをご存知の方は、相当なワインマニアです。1855年当時、マルゴーの3級格付けのシャトー・ドゥビニョンが同じマルゴー村のマレスコ・サンテグジュペリに吸収され消えました。

また、マルゴーの4級、プージェ・ラサールも、プージェに吸収され消滅します。

このようにして二つシャトーが減りました。

4.増えたシャトー

吸収合併で消えたシャトーがあれば、分裂で新たに誕生したシャトーもあります。

ポイヤックの2級、ピション・ロングヴィールが、「ピション・ラランド」と「ピション・バロン」に分裂します。同じポイヤックの5級、バタイィが、「バタイィ」と「オー・バタイィ」に分裂します。

サン・ジュリアンの2級、レオヴィールが、「レオヴィール・ラス・カーズ」「レオヴィール・バルトン」「レオヴィール・ポワフェレ」の三つに分裂しました。

マルゴーの3級、ボイドが、「カントナック・ブラウン」と「ボイド・カントナック」に分裂します。

以上で、五つのシャトーが増えました。

5.シャトー名の劇的な変更

現在のシャトー名は、1855年当時の名前に比べると細かく変わっています。変わっていないシャトーの方が少ないように思います。1855年の名前からは、現在のシャトー名を連想できないほど劇的に改名した例をいくつか挙げます。

・サン・ローラン村(オー・メドック)の5級、クータンソーがベルグラーヴに。

・サン・ジュリアン村の4級、デュ・リュックが、ブラネール・デュクリュに。現在、デュ・リュックは、Duluc de Branaire-Ducruとして、ブラネール・デュクリュのセカンド・ラベルになっています。

元は4級のデュ・リュックは、現在、ブラネール・デュクリュのセカンド・ラベルに

・ポイヤック村の5級、アルティグ・アルノーがグラン・ピュイ・デュカスに。現在、アルティグ・アルノーは、グラン・ピュイ・デュカスのセカンド・ラベルの名前になっています。

今はセカンド・ラベルだが、かつては5級シャトーだったアルティグ・アルノー

6.格付けの変更

これが、最大の変更でしょう。1973年、ポイヤックの2級の筆頭格のムートンが1級に昇格。格付けの変更はこれが最初です(おそらく最後でしょう)。

ムートンは、ラフィットと同じロスチャイルド家の一員です。ドイツのフランクフルトで両替商をしていたマイヤー・アムシェルの5人の息子が、フランクフルト、ロンドン、パリ、ウイーン、ナポリの五大都市に分散し、巨大な金融業を展開しました。五人が力を合わせる「五本の矢」がトレードマークとして有名です。ボルドーのワイン界では、この五本の矢は「協力のシンボル」とはいかなかったようです。

まず、ロンドンのロスチャイルドが1853年にムートンを購入しました。その2年後の1855年に「メドックの格付け」が決まります。格付けシャトーの最高峰であるラフィットを1868年(明治元年)に無理やり購入したのがパリのロスチャイルド家です。

同じロスチャイルド家なのに、ラフィットは1級、ムートンは2級。20歳の誕生日にムートンの当主となったフィリップ男爵は悔しくてたまりません。「後出しジャンケン」に見えたことでしょう。そこで20年に渡り、品質向上だけでなく、政治力と金を注ぎ昇級を画策しました。ラフィットから厳しい嫌がらせを受けましたが、ついに1973年に1級となります。

この時、昇格承認の書類にサインをした農務大臣がジャック・シラクでした。以降、シラクは首相となり、1995年には大統領へ。ムートン昇格のお礼としてロスチャイルド家が後押しし、シラクがトントン拍子で大統領に「昇格」したと勘ぐる人が多数います。こうして、今の「五大シャトー」が誕生しました。

昇格前のムートンは、ラベルに、「1級にあらねど、2級たるを認め得ず。我はムートンなり(Premier ne puis, Second ne daigne, Mouton suis)」とラベルに印刷したのは有名な話です。「へぇー、カッコいい文句だなぁ」と思ったら、誇り高き地方貴族、ロアン公の「王にあらねど、王子たるを認め得ず。我はロアンなり(Roi ne puis, prince ne daigne, Rohan suis)」をもじったものでした(ムートンの有名な文句が、ロアン公の言葉が下敷きになっていることは、意外に知られていません)。

そして昇格した1973年、ラベルに超大物画家のピカソの絵を採用し「かつて2級なりしが、今は1級となる。ムートンは変わらず(Premier je suis, Second je fus, Mouton ne change)」との一文を入れました。ムートンは得意満面ですね。