「ローラン・ペリエ」痛快で豪快、義理人情に厚い親分肌のシャンパーニュメゾン

ローランペリエ

シャンパーニュの超大手メゾン、ローラン・ペリエ

前身は、その昔、樽職人のアンドレ・アルフォンソ・ピエルが、シャンパーニュ地方のトゥール・シュル・マルヌ村で立ち上げた小さなネゴシアンから始まります。1812年のことで、ペリエ・ジュエ社の創立の翌年にあたります。

このネゴシアンを継いだのが、同社の最高醸造責任者のウジョーヌ・ローランと、妻のマティルド・エミリー・ペリエで、この時、正式に「ローラン・ペリエ」が誕生しました。

ローラン・ペリエは、1929年に始まった世界大恐慌(注1)のあおりを受けて財政危機となり、マリー・ルイーズ・ランソン・ド・ノナンクールが資金を援助します。これは1939年のことで、ポーランドに侵攻したドイツに対し、フランスとイギリスが宣戦布告して第二次世界大戦が始まったまさに動乱の年でした。

第二次世界大戦後の1949年、次男のベルナール・ド・ノナンクールが、二代目として経営を引き継ぎました。

ベルナールは一生懸命働き、年産80,000本の弱小メゾンだったローラン・ペリエを、グループ全体(ドラモット、サロン、カステランヌを含む)で生産量3位まで大きくしました。また、大手メゾンのほとんどが国際的な組織の傘下にある現在でも、ローラン・ペリエ社は家族経営を維持しています。

ローラン・ペリエ社の歴史は、二代目社長ベルナール・ド・ノナンクールの人生そのもの。

ジェットコースターのような波乱万丈の人生を駆け抜けたベルナールの生き様を見ていきます。

(注1)世界大恐慌は、ウォール街の証券パニックがきっかけになりました。証券パニックを仕掛けたのが、アメリカの第35代大統領、ジョン・F・ケネディの父であり、実業家のジョセフ・P・ケネディであるとの噂が根強く残っています。ジョセフは大恐慌の直前に持ち株を売り抜け、また、JFKの妻、ジャクリーンの実家も株を売って、無傷状態でした。ジョセフは後に、証券取引委員会の初代会長に就任するなど、「ウォール街証券パニック」への関与の疑惑は、アメリカ国民の間で深まるばかりです

立ち上がるベルナール・ド・ノナンクール軍曹

ローランペリエ

ローラン・ペリエの二代目社長となるベルナールの母、マリー・ルイーズ・ランソン・ド・ノナンクールは、1927年にはドラモットを引き継ぎ、1938年にはローラン・ペリエを買収しました。

マリー・ルイーズは、あの有名なシャンパーニュメゾン、ランソン家の子女。ランソン社が経営していたドラモットを相続し、当時、メゾンの名前はランソン・ペール・エ・フィスメゾンでしたが、元の「ドラモット」に戻し、復活させたのです。

マリー・ルイーズにはモーリス(兄)とベルナール(弟)の二人の息子がおり、二人は将来、母親が買収したメゾンを経営すべく、ドラモットでシャンパーニュ造りの修業に励んでいました。意外なメゾンが意外なところで繋がっていますね。

1940年、ベルナールが17歳の時、ドイツ軍のトラックが15台、いきなりドラモットの前の狭い道路に止まります。ドラモットとサロンは長屋状態で接しており、1cmしか離れていません。3mの狭い道路を挟んで、向かいにギィ・シャルルマーニュがあります。

ル・シュル・メニル・オジェ村近辺の小さい生産者は、日本の駅前アーケード商店街の隣同士の雰囲気があり、アーケードのど真ん中にドイツの軍用車が一列に駐車した感じですね。

この一行は、ヘルマン・ゲーリング元帥が差し向けたものでした。

「鉄人ヘルマン」の異名があるヘルマン・ゲーリングは、第一次世界大戦では空軍のエース・パイロット、第二次世界大戦では最高位の元帥に上りつめ、ヒトラーの後継者とみなされていました。

質素なヒトラーに比べ、ゲーリングは貴族趣味で華麗な生活が染み込んでいます。芸術を好み、占領下の美術館や富豪から、ダ・ビンチ、フェルメール、ゴヤ、ルーベンスなどの名作を大量に強奪しました(最大のターゲットが、ロスチャイルド一族の収蔵品とのことです)。

そんな「美術と美食を愛する元帥」が目を付けたのがシャンパーニュ。中でも、サロンがお気に入りでした(ボルドーでは、ラフィットを好んだそうです)。

サロンの地下セラーに侵入したドイツ兵は、サロン1928年などをケースで運び出し、トラックへ積み込みました。

それを目の当たりにした17歳のベルナールは大きなショックを受けます。小さいころから憧れていたサロンが強奪された……。

ベルナールは、フランスを守るため、兄のモーリスと共にフランス軍に入り、レジスタンスとして立ち上がりました。母にして女傑のマリー・ルイーズも、二人の息子の気持ちに共感し、喜んで送り出したそうです。

サロン奪還大作戦

サロン

ベルナールは、第二機甲師団の戦車隊を率いたフィリップ・ルクレール将軍(注2)の指揮下に入りました。アルプスでドイツ軍と戦っていた時、戦争は連合軍の勝利で終結します。いわゆる「Vデー」で、1945年5月8日です。

勝利の知らせを聞いたノナンクール軍曹の部隊はヒトラーの山荘「ケールシュタインハウス」、通称「鷲の巣」に向かいます。

「鷲の巣」は、バイエルン・アルプスのベルヒデスガーデンにあり、ドイツの最南端で最東端、オーストリアと接しており、ナチス高級幹部御用達の別荘。標高1,881mの岩山の頂上に建って立派な山荘です。麓から標高1,700mまで専用道路があり、残りは岩山の中央をぶち抜いたエレベーターで頂上まで一気に124mを上がります。

山荘のセラーには、フランスから略奪した数百万本の極上ワインを貯蔵してあると言われていました。ワインは、「フランスの魂」。何としても取り戻さねばならないと、ベルナール軍曹は思ったのです。

ドイツ軍は「鷲の巣」から撤退する際、当然、エレベーターを爆破しました。標高差124mを歩いて登るしかありませんが、もちろん道中には地雷がビッシリ埋め込んであります。「相手の嫌がることをするのが戦争の基本戦術」なのです。

苦労の末、地雷原を突破したベルナールの部隊は、ついにワインセラーに侵入。セラー内の銘醸ワインの中には、あのサロン1928年があったそうです。

強奪の5年後に異国の地で巡り合えた憧れのシャンパーニュ。『母を訪ねて三千里』のマルコ少年のように感動的なお話ですね。

シャンパーニュを探すのは大変でしたが、持ち帰るのも大変でした。ベルナールの部隊は、負傷兵を運ぶように担架にワインの木箱を乗せ、何往復もして運んだそうです。

現在「鷹の巣」は人気観光スポットで、レストランとなっています。ナチスが敷いた山荘直結の専用道路は、崩落の危険があるので封鎖中。別の道路をバスで行く観光客がほとんどですが、ベルナールのように2時間かけて徒歩で登る人もいるとか。

ドイツやオーストリア観光の際は少し足を伸ばして「鷹の巣」へ行き、ローラン・ペリエを飲んでみてはいかがでしょうか?ミュンヘンから100km、ウィーンから200kmの近場にあります。

(注2)ジュヴレイ・シャンベルタンの名門生産者、フィリップ・ルクレールとは無関係です。レジスタンス時代は、「ジャック・フィリップ・ルクレール」を名乗り、通称は、「フィリップ・ルクレール・ド・オートクローク」です。ルクレール将軍の名前は、フランスの最新鋭戦車、「ルクレール」に残っています。

軍曹、社長に就任

ローランペリエ

終戦の1945年、ベルナールはシャンパーニュに戻ります。

兄のモーリスは捕虜となり、収容所で亡くなっていました。母、マリー・ルイーズは「息子の死は悲しいが祖国のための戦死であること」を非常に誇りに思ったそうです。こんな話を聞くたびに「シャンパーニュでは、シャルドネ以上に女性の力が偉大である」と痛感します。

そんな気丈な母を見てベルナールは、「家族のために、自分がメゾンを盛り立てなきゃならない」と決意しました。現在、ローラン・ペリエ社はシャンパーニュ業界で第3位の巨大生産者でありながら、今もなお家族経営を続けているのは、この頃からの「家族の強い結びつき」のためだと思います。

戦地から帰ったベルナールは、4年間修行に励みました。ブドウの栽培、シャンパーニュの製造から販売まで、全ての仕事でしっかりと経験を積み、1949年、母の跡を継いでローラン・ペリエ社の二代目社長となります。このときベルナールは弱冠28歳でした。

大手のシャンパーニュ・メゾンの社長は、豪華に飾った部屋で優雅にお茶を飲むのですが、ベルナールは違いました。

義理人情に厚く豪快な親分肌のベルナールは、生産量が80,000本の弱小メゾンの社長として、畑や醸造所に出て、職人と一緒に一生懸命働きました。

階級制度が今もしっかり残っているフランスでは、「経営者」と「使用人」は「皇帝」と「城の門番」ほどの差がありますが、ベルナールはブドウ栽培農家やシャンパーニュ造りの職人を大切にしました。ベルナールは「現場の苦労が分かる社長」だったのです。

どんなに経営難になっても、農家からのブドウの買い上げを止めたり、従業員を一人も解雇したことはありません。これは、アルプスでレジスタントとして活動していた時の経験からきているのでしょう。

ゲリラ戦でドイツ軍の勢力下のアルプスに潜入した時、人と人の信頼が全てだと痛感したそうです。密告されれば、直ちにドイツ軍に捕まります。命の保証はありません。「相手を信頼し、命を預ける」、これがベルナールの信条です。

ローラン・ペリエのボトルを見るたびに、マグナム・ボトル分の義理と人情が詰まった豪快な親分肌の「ベルナール軍曹」の話を思い出し、胸が熱くなります。

1988年、ローラン・ペリエは、サロンを傘下に収めます。ベルナールが小さい時から憧れていた超高級シャンパーニュがサロンです。

フランス軍に入り、アルプス山中でドイツ軍と戦ったのも、強奪されたサロン1928年がきっかけでした。「鷲の巣」でサロン1928年に再会した時は、さぞ感動的だったでしょう。

憧れのサロンを傘下に収めたのは、小学生のころからずっと憧れていたクラス・メートと結婚するような「純愛物語」ですね。ベルナールは、豪快で親分肌なのに、超純情なのです。

 シャンパーニュの百貨店

ローランペリエ

1950年から2000年の50年間は、シャンパーニュ全体の販売量が10倍になる「大躍進の半世紀」でした。

ローラン・ペリエは、ベルナールの頑張りによりグループ全体で生産量を100倍に伸ばします。今では、モエ・エ・シャンドン、ヴェーヴ・クリコに次ぎ堂々の3位まで成長しました。

30年前からシャンパーニュを飲んできた私には、ローラン・ペリエ社は、「義理人情に溢れ、純情なシャンパーニュ」であり、同時に「いろんな製品を造る百貨店的なシャンパーニュ」でもあります。昔は、100ccの超小型シャンパーニュも出していました。

通常のシャンパーニュ・メゾンは、ノンヴィンテージ、ミレジメ、ロゼ、プレステージュの4種類が基本ですが、ローラン・ペリエでは、この「基本セット」に加え、超辛口のウルトラ・ブリュット、半甘口のドゥミ・セックまで出しています。

主なシャンパーニュを見ていきましょう。

ラ・キュヴェ(ノンヴィンテージ)

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ベルナール軍曹は、アルプスを縦横無尽に駆け回りましたが、純情派でもありました。

ベルナールがシャンパーニュに求めたのは、フレッシュでエレガントでバランスが良いことです。パワーや力強さは求めていません。これが、メゾンのスタイルなのです。

ロゼ

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1968年、ローラン・ペリエ社はロゼを初リリースしました。このロゼは、私には特別な思い入れがあります。

私が20年前、腸閉塞で入院した折、友人が「お花じゃつまらないので、代わりのお見舞いだよ」と枕元に置いていったのが、このロゼでした。2週間、絶食絶飲状態の私は「退院したら、最初にこれを飲もう」と思い、それを励みに入院生活を耐えました。

ウルトラ ブリュット

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日本ソムリエ協会が認定するワイン・エキスパートの試験問題で、よく出るのがシャンパーニュの加糖量です。最も生産量の多いブリュットは、1リットルあたり、6~15gの砂糖を加えます(ドサージュ)。エクストラ・ブリュットが0~6g、ブリュット・ナチュールが0~3gで超辛口です。

1981年、ローラン・ペリエは「ウルトラ・ブリュット」をリリースしました。ドサージュがゼロの「究極の辛口」です。

30年前、私が初めて飲んだ「ゼロ・ドサージュ」が、ローラン・ペリエの「ウルトラ・ブリュット」でした。

ドサージュがゼロなのに、心地良いほのかな甘みを感じて驚いたのを覚えています。当時、私は「加糖しなければ良いので、いろんなメゾンが出すだろう」と思っていましたが、後を追う生産者はいませんでした。

私には、「ウルトラ・ブリュット」は「化粧しないゆえに、より美しい美女」との思いがあります。誰もが真似できる訳ではないのです。

グラン・シエクル

ローランペリエ

ご存じ、ローラン・ペリエ社のプレスティージュ・シャンパーニュです。古風なボトルに入っています。

ベルナールが、プレスティージュ・シャンパーニュを造ろうと思ったのは1950年代です。1950年代は、第二次世界大戦の「疲れ」が癒え、娯楽や豪華さを求めた時代。大手シャンパーニュ・メゾンは、モエ・エ・シャンドンのドン・ペリニヨン、ルイ・ロデレールのクリスタルなど、既にメゾンの頂点としてプレスティージュ物を出していました。

プレスティージュ・シャンパーニュを造るにあたり、ベルナールが最初にこだわったのは名前です。

第二次世界大戦を勝利に導いた将軍にして大統領のシャルル・ド・ゴールに手紙を書きました。「いくつか、名前の候補があるのですが、どれがいいでしょうか?」。大統領はすぐに返信します。「もちろん、グラン・シエクル(偉大な世紀)だよ、ベルナール君」。大統領が命名したシャンパーニュはこれだけです。

他人と同じことをしたくないベルナールは考えました。「プレスティージュ・シャンパーニュは、ヴィンテージ物でなければならないのか?」

試行錯誤の末、メゾンのスタイルである「フレッシュさ」「エレガントさ」「バランスが良さ」を表現するため、3つのヴィンテージをブレンドすることにしました(この考え方は、クリュッグに通じるところがあります)。初リリースは1959年で、1952年、1953年、1955年をブレンドしました。

しかし、やはりワイン愛好家は、ヴィンテージが気になりますね。そんな要求に応え、ブレンドしたヴィンテージが分かるように、ネックの部分に「構成番号」が貼ってあります。

例えば「No.22」は2004年、2002年、1999年をブレンド、「No.23」は2006年、2004年、2002年、「No.24」は2007年、2006年、2004年です。

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アレクサンドラ・ロゼ

「ベルナールの純情」の結晶がこのシャンパーニュでしょう。ベルナールの長女であり、現当主アレクサンドラの結婚式で、サプライズとして披露したのが、「アレクサンドラ・ロゼ1982」でした。1987年のことです。

アレクサンドラさんには、来日するたびにディナーにお招きいただき、いろいろなお話をお伺いするのですが「私の名前が書いてあるロゼを結婚式で見た時は、とても嬉しくて、驚いて、言葉にならなかった。父親の深い愛を感じた」とのことでした。

ちなみに、アレクサンドラさんの結婚のお相手は、シャンパーニュ業界とは無関係のネットワーク技術者とのこと。階層社会のフランスでは、エンジニアの階層はワインの生産者と同様に非常に高く、フランス人から見ると、バランスの良いカップルなのでしょう。

アレクサンドラさんは、『アイアンマン』に主演した女優グウィネス・パルトローによく似た長身で、スタイル抜群の美女です。パルトローと違うのは、ショートヘアーであることと、大きなメゾンを支えていく使命感に溢れていることでしょうか?

あるディナーでは、アクレサンドラさんのお嬢さんも来日し、私と同じテーブルになったことがあります。お嬢さんが「夏休みのキャンプで寝ていたら、真夜中にテントを爪で引っ掻く音がして、『熊が来た』と驚いて外へ出たら、お父さんが笑って立っていた」とのお話を披露し、一同大爆笑。ノナンクールの家族は、しっかり繋がっていると痛感しました。

おわりに

次回、ローラン・ペリエを飲む時は、ヒトラーの山荘からサロン1928年を取り戻した冒険話、どんなに経営が苦しくても一人も解雇しなかった親分肌、小学生の同級生と結婚するような「サロンへの純情」、愛娘への愛情を思い出していだたければ嬉しく思います。